陰雑記

日陰者の日記・陰弁慶の陰口

「自由意志は存在しません」派は誰をも責めないのか?

  いや、迷惑を被ったら、責めることはあるだろう。でもその迷惑の原因が、迷惑をかける主体・意志だとは主張しないだろう。単に、損害を被ったこと自体を問題にするはずだ。埋め合わせと再発防止のために。

 例えば何かを盗まれるとか、いきなり殴られるとかした場合に、その盗みも暴行も自由意志によって引き起こされた訳ではないんだから無罪、とはならない。もっと大きな犯罪とか劣悪な政治とかの場合もそうで、意志があろうがなかろうが、害のあるものは排除されねばならない。

 誰も意志による選択をしている訳ではない、という意味で誰も悪くはないのだが、それはそれとして、同じく非意志的に生起する感情は、適切に処理されなければならない。

 だから悪事を行うのも、悪事を裁くのも、どちらにも意志は寄与しないことになる。

 

 意志は存在しない=誰もそれを望んでやっている訳ではない、と考えると、望んでやった訳でもないのに批難・攻撃・排除される存在が可哀相だ、という見方はできる。

 それも一理あるが、そのことは結局、意志というのは責任追及と攻撃のためにある概念だということを示している。意志概念が無いと仮定すると、何処をどう責めて状況を改善すればいいのか分からなくなってしまうのだ。

 意志の存在を否定しても、損害の原因は何処かに見出されなければならない。それは「因果関係」の問題にシフトすることになる。

 因果関係として取り出されるのは「脳」になるかもしれないし、「環境」になるかもしれないし、もっと広く「物理現象」になるかもしれない。

 究極的には、如何なる事象の原因も「宇宙が生れたせいです」と言える。それは最早誰のせいでもないことであり、それでは困るので、どこかしらで原因遡及を止めて責めどころを作り出すしかない。

 いずれにせよ意志や原因の特定というのが理不尽なことであることは間違いない。そして理不尽だから止めよう、とはできないのが難しいところだ。「環境」を変えようというのが一番穏健だが、それが効果的でなかったり不可能だったりする場合もある。

 

 意志という概念が問題になるのは責任を追及する場合と、あとは何かしら他人を動かそうとする場合くらいだろうか。

 「お前には自由な意志がある」と主張し、そういう妄想を相手に抱かせることでこちらの望む通りに相手を動かせる場合がある。心理戦略として意志概念を用いることで相手を奮起させたり、消沈させたりできる。

 責任追及も対人操作も、それ自体自由意志によって引き起こされるものではないと見做せる。戦略を立てている主体がいるのではない。

 

 「~が~する」というのを全部「『~が~する』ということが起こる」と言い換えることができる。「起こる」は「起こす」を包摂している。例え自由意志が実在し、特定の意志主体による行為が実在するとしても、「その主体がその行為を、その意志により選択する」というその事態そのものは、非意志的に与えられるしかない。

 メタ的に見るとそうなのだが、メタ的ということはほとんど無意味ということだ。「一つ高い次元から物事を見ています」と言っても、人は現実には低い次元で生きている。「高い次元で物事を見ています」もやはり、低い次元から見ればただの「そういう主張」であり、それもまた一つの心理戦略であって真理でも何でもない。

 

 のだが、メタな視点を真理とする戦略で何が悪いかと言えば、何も悪くはない。それを信じてやっていけるのなら。

 しかし信じるということもやはり意志によることではない訳だから、いつでも信じられる訳ではない。それが分かっているから、メタに立とうとする人は自分を疑うことになる。その疑いが低い次元において「優しさ」として表現されるはずだと私は思う。私はそういう優しさが好きなのだ。意志概念の理不尽さを緩和できるのはこの優しさしかない。