陰雑記

日陰者の日記・陰弁慶の陰口

自己責任論について

 人が自由であるってことは色んな意味で言うことができますが、一般的には、様々な選択の可能性をその都度持ちつつも、自分の中の自然な感情なり自然な論理なりに従ってスムーズに行動できるときに、人は自由であると言えるのだと思います。特に外的事情からではなく、内的本質から行為が出てくる時に、それを自然であるとか自由であるとか言うんですね。

 

 実際のところ、誰が何をどうするにしてもそれがそのまま「自然」なんでしょう。自然なものと不自然なものがあるのではなく、自然と不自然を包括するのが自然の概念の特質なのです。強制されていようがいまいが、それがそうなること、人がそうすること、は全て「自然と」そうなってしまうことであって、その人がその瞬間にその人自身であるということそれ自体における、自然な姿に他なりません。

 こういう自然の概念に従うと、結局のところ普通に言われる通り人間の意志は自由だ、ということになります。というより、自由と不自由を区別できなくなります。いかに不自然に見えても実際そうなっている限りそれは自然であり、いかにぎこちなく進んでいるように見えても実際、事態は滞りなく一瞬一瞬先に進んでいるわけですからね。常に人は自分の自然に従って自由に選択を下しますし、その選択が同時に、選択の余地がない必然でもある訳です。だから自由と必然は対立しないのです。

 

 ……で、それでいくと「自分の人生は自分の選択の結果だ」というのは全く正しいんですが、それはあくまで「自己が世界に関与している」ことを示すだけであって、「人生の全てについて自己が原因である」ことは意味しません。どうもこの辺の区別がつかないと自己責任論者になるような気がします。

 確かに私は選択しましたし、選択の結果を生きてもいますが、別に私の選択が全ての事象を決定した訳ではなく、飽くまで私の力の範囲内にあることと、ないこととが相互に関係した結果今の事態があるのです。私がそう選択しなければこのような事態は起こらなかったのだ、というのが事実だったとしても、同様に他者がそう選択しなければ、、ということも言えるので、やっぱり私だけに責任があるのではないです。

 

 ここで言ってる「選択」はどうして可能なのかについても書いておかないとですね。

 「私に起きることについて、私が全ての原因です」というのは「物理的因果関係(つまり私以外の全ての他者)が全ての原因です」というのと互いに補いあっていますが、どちらも等しく間違いです。全てが原因であり、当然私も原因ですが、他者も原因で、故に真の原因はどこにも無いというのが実際のところでしょう。

 私は原因じゃないし、「因果関係(とりわけ遺伝と環境)」も原因じゃないです。そりゃ世界が全く客観的に、心的なものを一切含まず物理的にそれ自体で存在していたなら、因果関係が全てを形成する原因であるというのも全く真理ではあるんですが、実際私は主観的に、物質とは全然違った変な意識のようなものとして存在しており、私自身が世界に関与して自発的に動いていることを肌で感じ、可能性の存在を思考として知ります。

 可能性は単に思考の内に存在するだけだろ、と言うなら、因果関係や自然法則だって思考の内にしか存在しないので、同じことです。最近はよく「脳が計算を行った結果として身体がその動きを行っているだけなのに、原因に関して遡行して思考を行うことでそれが自由意志の作用であると勘違いしている」みたいな説明がされるんですが、それを言うなら「脳が」っていうのだってただの遡行思考でしょう。実際、まず動きがあるだけだっていうのはその通りですが、それは自由意志の作用でもないし脳の演算結果でもないです。世界というのは統一された一個の流れでしかなく、その原因を私の心に求めようが、物体(脳)に求めようが、法則に求めようが同じことです。

 局所は原因になりません。強いて言うなら全体が原因ですが、全体は全体である以上、自分自身の原因すらもその内に含んでいますから、これは因果関係抜きに忽然と生じ忽然と滅するとしか言いようがないです。全て局所は全体に遅れてきます。私の意志も、物理法則も遅れてきます。だからいずれも原因ではない。

 さらにこれを突き詰めると、「一々の局所に先立っている全体」なる概念もまた、局所がまずそれとして生起してから、局所が生じる原因を求めて持ち出された概念ですから、むしろ局所が端的にそれとして与えられるからこそ、そこから遡行して辿り着くことができるものであるとも言えます。だから全体すら原因(根源)ではない、と考えることも可能であって、このように考える場合には局所は単にそれがそれであると認知されるだけで、端的にそれとして実在することになります。

 こう考える場合には、先に書いた全体の無根拠さ、自分自身の原因すら含んで忽然と生じ忽然と滅するというその在り方が、そのまま局所に継承されることになるからですね。まず端的に局所があります。それがそれとして生起するための根拠はそれ自身に遅れてきます。故に原初的に、それは根拠なく生じます。根拠なく生じるということは、つまり「根拠を否定することで実在性を否定する」という操作が不可能であることを意味します。だからそれはそれとして実在するしかなくなります。だからこそ、選択自由意志の存在というのは何度否定されても必ず復活します。根拠はそもそも、初めから問題ではないからです。

 この観点から世界を見た場合には、私の自由意志も、物理法則の必然性も等しくその都度実在し、しかも互いに矛盾しないことになります。矛盾しないのは、ここで言われる「実在」が最早恒常的・実体的なものではなく、その都度そう見なされるだけの仮象に過ぎないからです。

 ……で、だから私の「選択」とか他者の「選択」というのも同様に端的に可能なんですね。「私が選択した」という表現が現に正常に使用される時に、「実はその選択は強制された結果だった」ということは成立しません。また逆に「実はその選択は強制された結果だった」という表現が正常に使用される場合もあり、これもまたその都度端的に真理です。どっちでも同じ。

 

 そういう訳で、これでようやく一般的に言われている自由意志を構成することが可能になる訳です。世界が物理法則に貫徹されていることは随分前からみんな知ってるのに、それでも自由だの自己責任だのについてとやかく言うことができるのは何故か?っていうことですね。

 

 という訳でメタに立てば「全てが自然に振舞った結果そうなった」というのが実際のところであり、自己にも他者にも責任は、無い訳では無いけれど、有る訳でも無いのです。裏を返せばどの部分を取ってもそこに責任を擦りつけることはできます。そこでいわゆる自責と他責の対立みたいなものが生じてくる訳ですね。どっちでも同じです。都合の良い方を、これもまた各自自発的に選択するしかないですね。そのことについても、やはりメタ的には誰をも責めることができない。結局ニーチェですね。生成の無垢というやつです。

 よくこう、自責思考(お前自身が悪い)に対して他責思考(遺伝子が悪い環境は悪い)をぶつけたり、その逆(「遺伝子が悪いと決め込んで居直ってるのはお前自身の意志だ」とかなんとか)をやったりしてるのを見ますがどっちも同じだぞという話なのです。しかしこの「どっちも同じだぞ」もまた第三極でしかないのでやっぱり同じです。なので本来何も言うべきではないのです。全てが不正解(答えがない)であるために、逆に何を言っても正解になってしまい、容易に相手に対しメタを張ることができ、マウントを取ることができるのがミクロなレベルの(SNS上の)自己責任論の問題点だと思います。それが一層地獄の様相です。