陰雑記

日陰者の日記・陰弁慶の陰口

自由意志が存在しない理由とか

 6/13に書いていたらしい自由意志についての考察があった。今日はこれでいいや。。

 

 「自由意志(自由選択意志)なんか本当は無いんだぜ」っていうの定期的に耳にしますよね。バリエーションとしてはどんなものがあるでしょうか。

 まず最もポピュラーなものとして、因果関係とか物理法則とかに基づいた自由意志批判がありますね。意思決定は脳味噌、脳味噌は物体、物体は物理法則に従う!原因があって結果がある、全部初めから決まってる!ってやつですね。しかしこれはあんまり筋が良くないです。何かって言ったら因果っていうのは因と果が揃って初めて因果な訳です。まだ結果を生じさせていない原因っていうのは、実のところ原因でも何でもない訳ですよ。つまり因果関係ってのはすでに完結したことについて言える関係であり、過去について言うことはできても未来においては成立しないんですね。今この状況がどういう原因から生じたものか、っていうのは色々挙げられるでしょうけど、この状況が原因になって今後何が起きるか、なんてのは予め言えるもんじゃないのです。というかそれこそ「意志次第」ということになってしまうでしょう。もちろん過去の経緯、知識、記憶に基づいて未来を予測することっていうのはできるんですが、それでも実際どうなるかは、やってみないとわかりません。というわけで、起こる出来事は因果関係によってあらかじめ決まってるから意志は存在しないのだ、って説明は成り立たないのです。因果関係はただの事後処理です。

 じゃあ因果なしでどうやって自由意志を否定するのかって言ったら、(まあ因果関係が否定されただけで突然自由意志が出てくるはずもないのですが、)「必然性」って概念が鍵になります。因果関係は必然性を担保しません。しかし世界は必然です。何故かって言ったらそもそも世界は一個しかないからです。全てが存在する場所を世界と言うのだから、一個しかありようがないのです。もし複数の世界が存在するとしたら、その複数の世界を一個、二個、、って数えてるその場の方が一個の現実世界なのです。そして世界が一個しかないってことは、当然起こることも一個しかありえないわけでして、だから世界内で起きることは全部必然(それ以外があり得ないってこと)になる訳です。世界の進行というのは、「因果関係があるから一個しかあり得ない」のではなく、「一個しかあり得ないから因果関係を見出すことができる」のです。

 そうじゃない、世界には複数の可能性があって、その中から選択されたり、あるいは意志によって選択したりするのだ、とも考えられます。しかし現実は常に一つなので、可能性は妄想だと言うことが可能です。そもそも、因果関係が事後的であるのと同じくらい、自由意志だって事後的です。何かっていったら、まず行為があります。行為があってから、その善悪(都合の良し悪し)が判断されます。「あっ、やっちまった!」って思います。そう思ってから、別の行為を選択する「べき」だったという考えがでてきます。飽くまで「べき」です。しかしその「べき」が現実的に可能だったかというと、不可能だったのです。だって現に起きたのは、現に起きたことだけだったんだから。(「べき」と思うからには、可能だったはずだ。不可能なことをする「べき」だなどと考えられる「はず」がないから、という考えがあります。しかし「はず」もやっぱり所詮は「はず」です。)「自由だから後悔がある」、じゃなくて、「後悔するから自由がある」なんですね。一切後悔をしない人というのを思い浮かべてみましょう。多分彼は自由なんて概念は思いつかないし、理解できないし、興味もないでしょう。羨ましいことです。そもそも自由は不安と強く結びついています。これもやはり自由だから不安を感じるのではなく、不安だから、自由なる概念を捏造するのです。自由意志があれば向かう先を自分で決められますからね。しかしそれはただの願望であって、現実ではないです。

 というか自由意志って因果関係の一種(意志が原因になって身体運動を結果として引き起こすわけですからね)なので、因果関係が否定された時点で自由意志も否定されないとおかしいのではありますね。つまり因果関係が過去志向なのと全く同じく、自由意志だって過去志向なのです。

 しかしとにかく、そういう「やっちまった」後悔の記憶を持って今度は未来の選択に向かう訳ですね? しかし「右にも左にも行ける」って言ってるときには、まだどっちにも行ってないのでどっちに行く意志も現実ではありません。(意志があって選択するのではなく、選択がそのまま意志なのです。実現してない意志は意志ではなく、ただの願望です。)そして実際に右や左に行った時には、既に行ってしまったので、どちらも選べるわけではなくなっています。まだ行為してないときには意志がなくて、もう行為したときには選択肢がないのです。しかし自由意志は両者を必要とします。だから自由意志は無いんですね。選択の余地がないのです。

 

 もちろん「すべてが初めから決まっている」なんてことがある訳ありません。決まってるってんなら具体的にどうなるか言ってみましょう。具体的に言えないならそんな宣言に意味はないです。それもやっぱりただの願望です。ところが全てが初めから決まっている訳ではないにしても、それで自由意志が出てくる訳ではないのです。何が起こるかわからないにも拘わらず、必然なのです。だって一個しかないんだもの。

 さらに仮に「行為を選択する」ってことがあり得るとしても、その動機が問題になってきます。根拠があってそうしたなら、その逆は不可能だったので自由じゃないです。根拠がなくてそうしたなら、その自由は偶然と区別がつかないです。というか事象は単にそのように起こるだけであって、それが自由のたまものだの、いや必然だの、偶然だのというのは全部後から概念的に構成されます。事象そのものはそのうちのいずれでもないのです。