陰雑記

日陰者の日記・陰弁慶の陰口

死を楽しみに

 「死ぬのを楽しみにする」ってのは確かに可能だと思うのだが、しかし「じゃあなんで今すぐ死なないの?」って話にもなるわね。これについては「ライブ楽しみ」って言ってる人に対し「なんで今すぐライブに行かないの?」と訊かないのと同じだろうと。そりゃ「まだやってねーんだわ」という話です。つまり今はその時ではないから、できないってことですね。あと待ち時間というのも大事なのであって、今すぐできれば一番良いのか?というとそうでもないってこと。

 ライブと違って死ぬのは今すぐできるじゃん、と思われてるかもしれません。いやいや死ぬのだって思い通りには行きません。いや思えば思い通りになりますが、思うことが既に困難です。一方で勢いよく死ぬことができた人もいます。難しいもんです。生きたくてしょうがない人でもいきなり死んだりしますし、死にたがってる人でもなかなか死ねません。これは矛盾ではないのです。矛盾だと思うのはむしろこの事実に耐えられないからです。何もかも思い通りにはいかないものだという事実に耐えられないから、「これは矛盾だ、矛盾は起こらない、だからこれは本当ではない」とか、「本当は思い通りになっているのだ」とか言い始めます。つまり「死なない奴は本当は死にたくないんだ、死にたい振りをしているだけだ」などと言い出します。

 そもそも自分で自分を動かしてると思ってるのが間違いです。自由意志などありません。単に世界がこう動く、次にまたこう動く、更に動く、そして動く・・・という「これ」がひたすらあるだけです。偶にこの動きを指して「因果関係に従っている」とか「物理法則に従っている」とか言う人もいますが、違います。それは自由意志を否定しようとして反対側にずっこけた形となります。正確には、とにかくそれは起こるのです。起こるから起こります。起こった後に、「自由意志」だの「因果関係」だのの概念が適用されて、世界観が整序されます。それだけです。何も無いです。そういう訳で、私も生きたくて生きてる訳じゃないし、死にたくて死ぬのでもないです。自分の意志を決めつけちゃいけません。だからこそ死ということについても様々な態度が可能であり、その価値は無記です。どうとでも言えます。

 生きることを楽しむことと、死を楽しみにすることは別に矛盾しません。でも矛盾してるように見えるのはなんでなんでしょう? それはまず「死ぬのが楽しみ」ってことが「生きるのが苦しい」ってことを含意するって前提があるか、あるいは死を生の最後の一大イベントとして見る発想がなく、究極的には死は生と関係ないと考えてるから、でしょうか。死ぬと無になる、死ぬことは生がなくなることである、生がなくなることを祈るのは生を嫌っているからである云々。そうではないのです。死によって生を終わらせるのと同時に、死によってこそ生は完成するのです。どんな不恰好な死でもそうです。

 そりゃ死後の「無(?)」から見れば生は無意味です。しかしむしろ生から死を見るべきです。何故なら死後の無を考え、死後の無から振り返って生を見ているのは、生きている私だからです。

 死を積極的に規定するのはとても困難です。とにかくそれは、「生ではない」ということだけは言えるのでしょうけど、じゃあ「生とは何か」が分かれば裏から規定できるね、と言ったところで、死が分からない以上生も分からないのです。だからこそ生死が揃って初めて完成である、ってのは必然です。死が分かって初めて生が分かったことになります。(死を待てない人が、嘘をついて死を先取りするのが宗教というものです。早い話、ここでしている話もまた宗教的です。)そして生死が揃う時には既に生死はありません。これを不生不滅と言います。だから思いがけず、それは完成などではなく、ただの通過点かもしれません。あらら、という感じです。結局何が何だか分からんのです。だからこそ恐怖し、だからこそ楽しみだなあとも言えるのです。そして死に対する態度はどこまでも、飽くまで両義的なのであって、矛盾ではありません。誰でも死にたくないと思いながら死にたがり、死を現実に避けつつ死を楽しみに待つことができます。