陰雑記

日陰者の日記・陰弁慶の陰口

反出生、出社、出費

 賃金奴隷社会とその成員についてはもう気色の悪さしか感じない。粘着質で、逃すまいとしてくる。巻き込まれた人間はどうにかして諦める術を学び、自己肯定し、他者を更に巻き込む。ヘラヘラしながら「俺はこれで満足してるぞ」って顔で、「働かないと生きていけないよ、普通は」ってね。さっぱりしているようで底知れず深く暗く纏わり付く怨嗟、「抜け駆け」への警戒。


 反出生主義が再発しそうだ。再発というか、こちらもこちらなりの防御として、敢えて起動しておかねばならない状態だ。

 私は同性愛者だし子供を産む気は無い。……代理母やらなんやらの議論のせいで「同性愛者は子供を産めない」とはやや言いづらくなってしまった。これは何も喜ばしいことではない。気違い染みている。男女の常識的出生すらあかんのにそんな変な出自の子供作るなと。

 まあそれはいい。反出生主義の主な機能の一つに、「生の全ては本来不要な、余計なものであったのだ」と捉えることで、自分自身を「(原因次第では)存在することもできたし、存在しないこともできたはずの、ある存在者」として再定義できるという点がある。その認識の力によって、恰も「生きていながら、生きていない」かのような状態に身を置くことができる。飽くまで「かのような」なのだが。……「存在していない状態」なるものがどんな状態なのかは今となっては(現に今ここにいる限り)さっぱり分からない。しかしとにかく、「無」なる状態を自己の本来性として捉えることで、生を単なる虚仮威しとして軽んじることもできるようになる。そして生は相対化されるのだ。それでこそ重く冷たい現実の苦痛に、どうにか耐えることもできるようになる。……結局耐えきれない人ももちろんいるが。「現実」そのものが余計事、無かるべきものだったのだ。そして何よりここで否定されているのは、「現実」の価値体系そのものなのだ。

 まあ「存在し始める」ということを因果律に則らせている時点で理論哲学的には論外なのだが、これも立派に「生の哲学」だと私は思う。これ自体はずっと昔からある発想で、それが最近になって現代化・科学化されただけなのだろう。


 今日はシフト勤務で1時間遅いのに電車座れねえ。。いつもこんなもんなのか? みんな時差通勤か? じゃあ明日の満員電車は想像より少しマシか?


 セブンの唐揚げ棒を食う。記憶では123円だったが167円した。2本。コーラを合わせると500円を超えた。

 そしてレシートを見ると袋に3円かかっていた。なるほど。「袋どうしますか?」と聞かれて、「温かいのと冷たいのを一緒に入れていいか?」って意味だと思って「一緒でいいです」と答えたが、あれは「袋買いますか?」の意味だったか。。


 そういう訳でね、帰宅。お布団。23時前。明日は7時半出発。