陰雑記

日陰者の日記・陰弁慶の陰口

樫山欽四郎『哲学概説』

樫山欽四郎『哲学概説』(創文社、1964年)

 

 入門書にして奥義書、というという趣の本。本質主義実存主義哲学史的にバランスよく紹介しつつ、人間誰しも当たり前のようにやっているが、それとして意識されていない根本的な部分を描いている。

 本書で繰り返し強調されるのは、「人間は死に対して態度を取る」ということだ。態度というのは、自分が死んだ後に残された人たちのことを思って行動するとか、後世に何かを残すとか、後悔しないように生きるとか、そういうことだ。それだけではなく、人間は死んだ後に天国に行くとか地獄に行くとか、生まれ変わるとか、全くの無になるんだとか、色々なことを考えて、念仏を唱えてみたり、憂鬱になってみたり、投げ遣りになったり、これについては考えないようにしよう、と決め込んだりする。

 死後に無になるなら、どう生きても同じだ。が、そこが問題なのではない。問題は無になるとかならないとか言ったり、投げ遣りになったり素行を悪くしたりしているその時に、何が起きているかということなのだ。それが結局「死に対する態度」というやつである。生き方を選ぶ、とまで行かなくとも、次に何をするか選ぶ、というところで既に、それが一つの態度なのだ。何故なら人生の時間とは死ぬまでの時間に他ならず、何かをするということは死ぬまでの時間を埋めることであり、死への到達の仕方を決めることである。そしてその時間の埋め方で良いかどうかを判断する根拠となるのが、即ち死が何であるかをその都度規定することに他ならないからだ。

 死が何であるかは全く分からない。死から戻って来た人は誰もいない。生死の境を彷徨うことがあっても、結局戻ってきたからには、その人は死んでいない。また、生まれる前のことは覚えていない。将来死後の世界が科学的に解明されたとしても、なおその解明が生の中での出来事だから、実際に死んでみないことにはやっぱり分からない。そういう訳で、死は追い越し得ない可能性としてのみある。それでも人は常に死を追い越して、死ぬまでの時間についての身の振り方を決めている。で、「お前はこれでいいのか」と、死から問われる訳だ。これには答えようがないが、答えねばならない。

 

★以下は目次に沿った解釈と要約。

 

序論

 

 人間は自分が死ぬことを知っている。死を先取りし、対処する。対処することで、自己であろうとする。つまり、死を踏まえて自分の生き方を選ぶ。生き方を選ぶことで、自由であろうとする。自分は自由であるべきだ、と考える。そして本来的な自由の在り方を求める。それは社会的構造の伴わない自然界に求められることもあるし、どのような事態においてもなるがままに任せる心の平静さに求められることもある。いずれにせよそれらは理想であり、そのようであろうとする意志を前提する。意志は自己自身の原因であろうとして理想を立てる。理想は時に歴史的・社会的なものとなる。実現すべきものを実現させることに自己の自由を見ようとする人間がいる。いずれにせよ、これらの自由は自己の外、無限なる何かに従おうとすることで、自由を表現する。

 対して、自己の有限性(亡びるということ)に徹することによる自由がある。「永遠や無限の中に自己を置き忘れ、自己を見失ってしまうのではなく、亡びるものとしての自己を引き受けて、それをいまここに進んで在らせることである。いまここよりほかに自己の生きる場がないことを自覚して、いまここにすべてを賭ける自己となることである」(20頁)。これは「自己であること」そのものに徹する自由であると言える。

 

 いずれにせよ人間は自己に先んじて対処する。追い越し得ないものとしての死に対処する。その上さらに追い越し得ないのは、「在る」ということである。何が在るのかは分からない。存在を規定しきることはできない。不可知である。だが不可知に立ち止まることはできない。不可知であるということは、知ろうとすることにおいてのみ意味を持つからである。だから、知り得ないことを知ろうとする処に哲学がある。そのような人間の営みが哲学である。非哲学的態度、日常への埋没、当座主義、判断停止、もまた結局は一つの結論であり、存在の追い越しであることに違いはない。だから哲学から逃れられる人間はいない。いずれにせよ、当人が忘却しているにせよ、誰しも哲学において生きているし、先人の哲学を踏まえ生きている。

 

一 問題

 

 「何のために生まれてきたかわからない」ということ。人生の途上では答えようがないが、しかも常に既に答えており、しかし満足には至らない、そのような問題。人生の全体は知らないが、知らないということを通して、全体をどう帰結させるかを考えている。

 

 人間は対自的に分離し、自己に関わり、自己を評価し、決定する。また自己に関わることを通して、自己でないものとしての他者を知り、さらに態度を取る。対自関係においても対他関係においても、対象を表象し、ある観点から客観化している。

 

 客観化されないあるがままの存在は世界内に現れない。しかしとにかくそれは自然として在る。その自然があるということがどういうことか、自然ということを通して、ここに何が在ると言われているのかは、分からない。それは無いのでは無いとしか言えない。私もまた、私が結局誰であるのかは不明である。不明ながら、とにかく無くなり得るということを通して、今は無では無い何かとして存在しているということだけは分かる。

 

二 客観

 

 客観性とは何か、何が現実の客観的な姿であるか、については、時と場合によって様々に語られる。しかし時と場合に制約されない(永遠に同一な、飛躍の無い、因果必然的な)姿こそ、真に客観的であるはずである。ところが、ある一つの「時と場合に制約されない姿」を語ること自体が、また一つの角度からのものに留まる。故に人間は客観性には辿り着けない。客観は飽くまで人間的客観である。

 

三 実体

 

 古代ギリシアでは、根底的に同一性を保ち続ける実体が説かれた。プラトンは個物の範型としてのイデアを、アリストテレスは個物に内在する形相を考えた。いずれにせよ、それは永遠に存在するものが、予め定められたとおりに変わらず存在し続ける世界観だった。全てを主宰するのは雑多な質料ではなく、最高の善、目的である形相だった。故に存在するものは全てそれに従う。また人間は理性を以って、世界の理法を客観的にただ見るべきだとされた。ギリシアにおける実体観は運命論、運命随順論だった。

 

 近代における実体として、心(思考するもの)や物(延長するもの)、それら限定を超えた神等が語られた。数理的に計算可能・理解可能な延長が実体として考えられたことの影響は大きく、これにより世界に随順するという発想は転換され、むしろ世界の方が人間の認識に従うものとされた。世界は手を加えられ支配されるべきものとして考えられた。

 

 いずれにせよ、現象の根底にある本質は、世界全体の意味を求める意欲の結果として、推理によって想定されたものに過ぎない。世界を超越することはできない。故に何らかの実体を求める人間の在り方こそ問題とすべきことである。

 

四 主観

 

 実体は外に求められる。実体を前提した場合、真理とは実体の在り方と、思考されたこと、行動、生き方との一致である。これに対し、主観は内の原理である。ソクラテスにおける「汝自身を知れ」、デカルトによる方法的懐疑と直証的事実としての「考えながら私は在る」を経て、カントに至り、世界の真理は世界に内在する人間に発する問題となり、また人間の内面の問題となった。

 

 主観は世界を構成する原理、基体である。主観はデカルトにおいてはまだ心的実体として考えられ、主観に吸収され得ないものとして神が証明された。その後ヒュームを経て実体の存在は否定された。カントは道徳を実践しようとする主体の存在から、理念としての永遠(いつか道徳が実現されるための永生、道徳を実現するための自由、道徳に報いを与える神)を導いた。これは飽くまで要請であり、超越的に世界の全体を知る道は断念された。

 

 実証主義的態度において、究極の実在・根底は問題外とされ、ただ現象の分析と予測のみが問題となった。予測が外れれば、理論を修正する。これを繰り返せばよいということになった。哲学は最早現象の探求には参与せず、ただ美的価値や、学的方法を論うものとなった。

 

 人間は絶対に辿り着けない外部を前提しつつ、内部を充実させることを求めた。知は充実していくが、もはやそれは実在の知ではなく、意識に対する知となった。真もまた実在する真ではなく、知に対する真であり、知が真により修正されるとき、同時に自ら知となり次の真を待つような、そういう相対的なものとなった。かくして人間は当座の楽観論と無限の探求を手にし、安心を失った。

 

「かんたんに結論を言っておく。主観とは、実体に代って、存在するものの基体となったものである。だから、主観は、その意味で、存在するものを支配するものである。それが、近代における、自然に対する人間の勝利の考えにつらなる。近代は、そういう形で、認識の主観としての人間のなかに「永遠なもの」を見たのである。かつては、実体としての存在が永遠で無限であったが、近代においては、自然の主体としての人間が永遠であり、無限である。人間の無限の力がそういう形で誇示されている。現に人々は、科学の名において、そのことを口にしている。だがこれまでのべたように、そのこと自体が、人間の「有限性」に通じる。ということは、人間は、自然において、自己をしかみることができない、ということを意味する。自然は、人間の力を以てしても、依然として自然である、ということを意味する。人間が自然の名において、自己につき当たるということ、そこで、地のエレメントから仕かえしを受ける、ということを、既に早くヘーゲルは指摘した。なるほど、自然に対し、人間の力は無限である。だが、そのこと自身が人間の絶対有限性を語っている。それは、人間のことであって、自然のことではないという形で、人間にはねかえってくる。自己の「無限の力」が自己にはねかえって、人間を不安におとしいれている。そこに、人間の有限な姿がはっきり出ている。大切なのはこのことである。」(176-177頁)

 

五 時間

 

 カントにおいて時間は主観の持つ、空間と区別された直観の受け入れ方、形式である。それは全体として連続した容器のようなもの、継起や持続が可能となる場として、つまり表象された空間の一種としてある。時間は空間化される。

 ヘーゲルにおいて時間は空間の自己廃棄である。線が面の否定であり、点が線の否定であり、空間が点の否定(最後に残るもの)であるのと同じく、時間は空間の否定である。自己否定において、面は線を知ると同時に自己を知る。空間は時間を知って初めて空間となる。もし線という他者がいなければ、面もまた出てこない。要するに、現実に存在するものの存在根拠は、その存在の自己否定の結果としてこそ得られる。空間が自己を知ることは、空間の瞬間性、動揺を知ることである。だから、空間として生じる瞬間が尽きて次の瞬間へ至る否定の運動が時間である。そこに空間の根拠としての時間がある。空間は時間化される。

 ベルグソンにおいて、互いにそれぞれ異質であり排除し合う諸瞬間が、意識・記憶作用によって互いに浸透して時間になると考えられた。質的な時間としての意識の流れが、量的な空間内の運動として構成される以前にある、純粋持続として説かれた。

 

 キルケゴールにおいて、単なる生成としての瞬間、繰り返される形式、持続として定義され語られただけの時間ではなく、異質な、自己が自己を決めるということにおいて事態が動くその具体的な瞬間にこそ、具体的な時間がある。現実にここに存在する、客体化されない時間である。永遠の存在を信じると決断する瞬間、信仰の瞬間である。

 ハイデッガーにおいて、時間は死の存在、終わりが存在することに先駆け、未来を通して本来あるべき自己に帰る運動である。つまり死に臨むことにより、「お前はこれでいいのか」と問いかけられる時間である。自己を正すこと、例えば悔いのないように生きる、何かに専念して生きる、楽しいことをして過ごす、後世のため・誰かのために生きる、等、何であれ生を真剣に生きる時間である。「いずれ無になるのなら、どう生きても同じことだ」と思い込む時ですら、そう思うことで生を自ら耐え易くしていることに違いはない。何の意味もないものであると生を見做すことにもまた覚悟が要る。

 

 アウグスティヌスヤスパースにおいて、時間は唯一絶対のこの今に集約される。今は前後を持たず、現に始まりつつあり、終わりつつある。無からの創造が現に行われている今であり、無からの創造を信じる今である。瞬間において永遠が創造され、永遠の内に瞬間がある。形式・繰り返しとして、永遠として捉えられた時間と、生の現実としての真剣さにおいて現れる瞬間としての時間とは、相互に包括し合いつつ、現にこの今において創造される。

 

 道元において、人間と時間は、互いに互いを成り立たせる。自己のあるところに時間があるので、自己以外に時間はない。かと言って時間は自己の形式ではなく、むしろ時間が自己となって今ここにある。一個の根本的な時間が、自己と時間とに分かれる。時間の本質と成立根拠を問うこと自体が時間の現れに他ならず、時間は全てに先行すると共に、その都度の時々として様々に見られ得る。

 

六 空間

 

 原初的に、空間はある状況、環境、地平の内的様相そのものである。空間があるということは、関係が開いているということを意味する。

 空間が先にあり、そこに物が配置され、ある働きを持ち、他と関係する、という理解は現実的な順序を転倒している。現実には、関係のある所に物もあり、空間もある。

 一切の関係を捨象した客観的な空間に出会うことはできない。そのような空虚な空間に出会うことがあったとしても、それを空間であると考えることができない。故に空間は客観的にそれ自体であるのではない。空間は関係としてある。客観的にそれ自体で存在するとされた三次元空間もまた、原初的な空間としての関係においてのみ考えられる。

 

七 存在

 

 存在の問題はヘーゲルにより解答された。

「存在の弁証法は、同時に主観の自己実現弁証法であり、意識の類比である。この限りでは、主観の哲学である。が、それがただの意識の哲学になっていないのは、同時に存在の哲学であるからである。つまり、存在と意識という対立から、考えられてはいないからである。存在は意識の他者であって、他者ではない。互に否定の関係にあることにおいて、既に互に独立にそれ自身で在るのではなく、他においてそれ自身であるからである。

 このように、互に他者(否定)であることにおいて、同時に他者は無である。無とされることにおいて、他者は自己において生きるのである。そのような過程の全体が、いわゆる弁証法である。だから、存在は根本において無である。このことをヘーゲルは次のように説明している。存在(Sein)というのは、最も無媒介(直接的)な概念であるから、全く無規定である。すべてであるという意味で、何ものでも無い。だから、存在即ち「在る」は無である。存在の真実は無である。こうして、有が無となり、無が有となることにおいて有と無は既に成においてあることになる。つまり、有と無と成の弁証法がそこに在る。」(279-280頁)

個としての意識と全体としての存在は互いを否定し合いながら、互いに依存し、互いに規定し合い、互いに区別されて自己として在る。主観が存在を決め、存在が主観を決める。存在は存在しながら、何でも無い。存在があると言えばそれは即座に無であり、無があると言えばそれは即座に存在である。だから存在は無く、生成が有る。生成において、意識の展開と存在の展開は一つとなる。

 ここから、飽くまで現実に生きられた意識の内から、概念化されず捉えられるような存在を求めて実存主義へ、また存在の真実を物質として考えることで、自己の疎外が必然であると考えたマルクス主義へと、それぞれ分かれる。

 

 自己の必然(力への意志)と存在の必然(永劫回帰)を重ね、両者を合わせて全てを肯定しようとするニーチェの哲学が、運命愛としてその全一性を表現した。ハイッデガーはその意志の働きすら単なる主観主義であるとして批判し、主観的に立てられるのではない現存在の気分としての不安・空しさが、同じ空しさとしての、存在の本質である無を、自然に現わすことを説いた。

 

八 結び

 

 主観の立てる客観の、その土台である存在は、無に媒介されてある。主観が何を立てたとしてもその外がある。主観は有限性の自覚、有限性により否定されることを通して他者としての存在を知る。それを再び表象とすることなく自ら持ち堪えることで、辛うじて真理を垣間見ることができる。

 

★以下は私の考察。

 

 

 結局のところ、何が存在するのか。存在するとはどういうことか。客観的に語ることはできない。客観性をどのように語ったとしても、それは主観の表象に過ぎない。要するに思い込みである。ではむしろ居直り、主観の思うがままに語ってそれを事実とすればよいかと言うと、そうでもない。主観は世界の一部に過ぎない。だが問われているのは全体である。

 

 

 存在は客観的自体的に存在するのでもなく、主観により思い描かれるのでもなく、却って主観と客観をそこに同等に位置付けるように、なければならない。

 

 

 現実は確定できない。誰も死を超えることはできず、向こう側を知らず、全体を知らない。

 全体は部分からは質的に断絶している。全体は全体である以上、外部を持たず、制限を受けず、無限である。故に、部分を積み重ねて全体に至ることはできない。それでもなお全体に至り全体を把握するには、到達しようとする主体自身が、突如として実際に全体である他にない。世界の一部として表象される私は、同時に表象としての世界の全体である。故に全体こそが先にある。だからこそ、そこから部分を取り出せる。全体は部分を初めから含み、部分に一定の連関、意味を与える。

 だが全体は全体として限定された瞬間に、もはや全体では無い。全体自身が概念として全体の内に位置付けられる。だから真の全体はその先にある。そのようにして常に新たな全体(地平)に移る。この意味において、やはり全体には到達できない。空間の全体・時間の全体はこの瞬間に現成するが、その全体がなお無常である。

 

 

 世界が実体的な無(本当に何も無かった、虚無であったということ)から創造されるのだとすれば、そのような無をどうやって認識できるのかということが当然の疑問として出てくる。時の断絶と言っても同じで、本当に断絶していたら断絶に気付けないはずである。それは理解も説明も不能である。だから無は実体としての無ではない。関係としての無である。存在することと表裏一体の無であり、無の現在であり、無を見据えた時間である。

 

 

 世界は今始まったのだということ、そして今だけが現にあるのだということ、今何をするかが全てであり、過去も未来も今において扱われ、今と共に消え去るのだということ。だから、今することは未来のためにするのではない。現に現れている未来を志向しつつも、それはそれとして現実の未来(そんなものは存在しない)とは関わりなく、今に完結するものである。時間が一つ上から見られ、真なる時間となる。それが時間の否定としての存在である。観照にせよ実践にせよ、全てはここから出てくるのであり、全ての哲学的原理はここに尽きる。結局のところ、起こることが起こるのみである。それが在るがままということである。

 これは表象ではなく、現実である。常に既にそうしている。否応なくそうしている。だからこそ、同じ否応なさを以てこの現実を忘れることもできる。現実を忘れると、現実は表象となる。だが立てられる表象よりもっと手前にある、この場こそが現実なのだ。

 忘れようと思って忘れる者はいない。また思い出すにしても、それはふと思い出すのであり、そうさせられるのだ。だから意志でどうにかするというのでもない。意志が働く余地はない。忘れたくなくても、忘れる時には忘れる。忘れるということにおいて一つの地平が生じる。それが在り方を「決める」ということである。だから決めているのは自己ではない。存在が決めることを忘れることを通して、自己が自己を決める。かくして、存在することにおいて能動と受動は一致する。誰が選ぶのでもなく投げ出されていることと、私が選んで投げることとは相互に補い合いつつ、同時である。

 

 

 自己を追い越すこと、死を追い越すことは、未来を追い越すことに等しい。死は絶対的な未来である。

 未来は未だ来ないから未来なのであり、現に来たら現在となってしまう。過去ならば、想起という形で、現実にあったこととして再現することができる。未来は未来としては現れない。したがって未来は存在しない、と考えることができる。

 それでもなお未来は実在する。というより、実存する。概念としてではなく、生の現実として存在する。過去と未来を断ち切り、今この瞬間しか存在しないと決断するところに、却って未来はある。

 

 

 存在が私を決め、私が存在を決める。自分で自分を好きにできるということではなく、むしろ全く思い通りにならない中で、なおもあるべき自分を思うことができ、それに即して生きることができるということである。だから自己責任というのではない。純粋な能動は無いし、純粋な受動も無い。あるべき姿を描いたからと言ってそのままそれになれる訳はない。そもそも、あるべき姿を描けない時がほとんどである。それを決めるのは因果関係や運命である、と言う時ですら、判断しているのは私であって、私でない。因果や運命が実在するのではないし、私が因果や運命を思い描くのでもない。

 

 

 真偽の問題ではない。真理だからそれに従うのではない。信じるから、それを真理として生きることができる。真理よりも自己が先にある。自己が真理を追い越す。ただし真理もまた自己を追い越す。自己の意志により信じたことは、信じ込まされたことである。信仰ではなく真理だと思ったことは、却って信仰である。

 

 

 私は先駆し、予測する。未来に視点を置き、現在を過去と見做し、三者の関係として実現する全体状況において何かを決めている。日常的な判断については、飽くまでその判断の帰結を想像するところまでしか行かない。そこから更に根底的な在り方を決める時、つまり哲学する時に、私は最後の未来である死に先駆する。

 

10

 

 死が完全な破滅だろうと、次の生への入り口だろうと、永生の始まりだろうと、同じこととして、それを決めている自己が既にいる。生の総体は、死を規定することによって規定される。

 同様に、世界全体の在り方、存在の在り方は、世界全体の終わりに先駆けなければ考えられない。だから死が問題になる。存在は死によってしか明らかにならない。終わりがあってこそ、そこで初めて「つまり存在とは、これのことだったのだ」と語ることができる。存在が死ぬのである。死が存在を規定する。だから死は人生の終わりにある出来事ではなくて、世界の基礎をなす概念である。人間の問題である前に、存在の問題である。それは超越論的死である。

「超越論的(transcendental)・・・この言葉の意味は、いつも経験(現象)に先立ち、それを越えているが、経験との関係において初めて、それとしてはたらくような、主観のはたらきの仕方を意味する。・・・経験を越えていながらも、経験と共にでなければ、はたらかない、そのはたらきの在り方をいう。」(273頁)

 永遠の命を実際に生き切ることはできない。永遠を約束されたとしても、なお死は常に可能である。そこが基礎なのだ。常に可能であるこの死は、「あの世」への入り口としての「この世」の死ではない。この世とあの世を超えた純粋な断絶としての死である。無と呼ばれる何かへの移行ではなく、無そのものとしての死。(だから無は生成の一契機であると解釈されてはならない。)

 

11

 

 死は生との関係において、両者を分けることで得られる抽象概念でしかない。現実には死そのものは何処にも無い。私がある時には死は無いし、死がある時には私は無い。だから死は何物でも無い。死は永遠に来ない。

 だが私は瞬間において現に死ぬ。瞬間という形で常に無に接している。瞬間は断絶し、即座に無である。概念に過ぎないと考えられる、永遠に来ない、単なる可能性としての、表象としての死を、現実としている。

 概念としての死を知ることができるのは、途絶としての死を知っているからだと言える。「現に今この瞬間しか存在しない」と考える時、既に未来を経由している。未来の途絶を見越していないと、瞬間の断絶を言うこともできない。

 また、途絶は恐らく永遠に通じている。無が有ることは矛盾であるから。純粋な無は、純粋な有(純粋な永遠)と同じく存在し得ない。だから却って永遠の概念が得られる。永遠とは、死の先に延長された時間である。

 途絶である瞬間も、途絶のない永遠も、未来の途絶である死を知っているからこそ考えられる。両者とも死を経由してのみ存在する。瞬間の概念も永遠の概念も、その源は死である。

 疾と常の二重性としての時間とは、つまり現在の死と未来の死との二重性としての時間である。永遠の先にすら、その限界としての死がある。故に時間とは死である。時間は死ぬまでの時間であり、死のある時間である。

 

12

 

 現在に全時間を包摂し、かつ現在が全時間の内にある循環関係が在り、またその循環をその都度断ち切り、ある時は連続として、ある時は断絶としての時間を生きる往還関係が在る。主体はその都度決断された時間の内にいる。

 

13

 

 死は恐怖である。現実に死ぬ前に、心構えとして「正しく死ねるように」なっていなければならない。

 だが存在の途絶は何故恐ろしいのか? 理由は無い。ただそうなっている。死は心理学的概念ではないし、生物学的概念でもない。

 

14

 

 環境・関係・状況として現に生きられた生活的空間の否定が、即ち物であり、物の否定が、客観的自体的空間である。

 物を媒介として二つの空間が接する。生活的空間は自体的空間と出会って初めて、生活空間であることを自覚する。他者を知らずに生活に埋没するのみでは、まだ真に生活を生きることにはならない。両空間が互いに関連し合うことで現実的な全空間を表現すると見るのが適切だろう。

 空間の否定は時間であり、時間の否定は存在であり、存在の否定は無(死)である。だから無があってこそ存在は存在となり、時間は時間となり、空間は空間となる。

 

15

 

 私は私に生まれることを選ばなかった。同様に私は今この私であることを選ばない。また死して後どのような私であるかも選ばない。全て無に帰り、無から新たに出る。無は主体では無い。だから私も主体では無い。

 

16

 

 正しく死ぬために今死ぬ。現に未来を志向しながら、その未来を無にする形で死ぬ。「今ここで存在が途絶したとしても一向に構わない」という形で、或いは「今ここで存在が途絶するとしても私はこれをする」という形で、可能性を現在に呼ぶ。現在を無にし、無に答える。

 瞬間に死がある。故に存在の意義も瞬間にある。これが真理であり、自然であり、存在そのものであると決断する瞬間に。

 だが無にしたところに却って生活がある。死を忘れないことと、現実に死ぬこととは異なる。だから決意は繰り返される。いつ死ねるかは、私の知るところではない。