陰雑記

日陰者の日記・陰弁慶の陰口

8月はテレワークになったのとショーペンハウアーについてのメモ

 「喋るならマスクをしろ、マスクをしないなら黙れ」・・・というただそれだけのことが、終に定着しなかった。。

 マスクを着けずにべらべら喋りながら仕事をするおっさん三人衆が最近オフィスに来ていて辟易している。普段は私と先輩の二人しか来ていないオフィスで、先週木曜に三人がいて珍しいなとは思ったが今日もいた。え、この先ずっといるの? 一気にリスクが四倍になったんだが。。

 

 ……と、思ったのだですが、なんと明日から1か月は出社しなくてよくなりました。昼に連絡が来て、「今年はあまりにも暑くて出社が大変なので、8月はフルテレワークを許可する」とのこと。社長よ、辛うじて正気を保っていたか。完全に気が狂ったものと思っていたが。……「8月だけじゃなく永遠に許可しろボケ」とは言いたいが、まあいい。ぎりぎり人間に踏み留まったと認めてやってもいいだろう。褒めてやる。

 

 今日はマウスを忘れてタッチパッドで操作した。意外と快適にやれるもんだなあと思った。

 

 3か月くらいずーっと同じペットボトルで水道水を汲んで飲んでいたが、流石に1か月空けるとなると戻ってきたとき飲む気がしないので、捨てて帰った。

 

 以下まったく関係ないショーペンハウアーの話。

 主観は自前の認識能力の中をぐるぐる回るだけで、その外は認識できないとカント。ここには同意するが、しかし対象的認識ではなく身体的経験としてなら、現象としての世界の本質を(その現象の外は依然認識不可能であるとは言え)知ることができるだろう、とショーペンハウアー。ここが革新的なところですよね。対象的認識だけが認識の全てじゃないし。むしろどこまでも意志が先にあり、認識はその後。認識というものを一つ深く、カントが設けた境界を一歩広げる形で、しかし踏み越えないように。認識されるのは表象であって、意志は表象ではなく、主客を超えて表象を実現している力であると。意志が意志であることもまた一つの抽象的認識ではあるのだけれど、そういう認識以前のところにある意志そのものは、常に認識を超えて先行してきている、と。

 それで身体性から取り出される本質としての意志は、盲目な意志であって、目的を持たず、自分が何処から来て何をやっているのかを知らない。因果関係は表象の機序を語ることはできても、その機序の本質を語ることはできない。突き詰めると意志とは無根拠な動きそのものであって、多分ここで釈尊ショーペンハウアーは精神的に繋がっています。ショーペンハウアーと言うと意志の否定ばっかり言われますが、それ以前に意志の盲目=無常という点が先に共通点として挙げられるでしょう。そこからまた、ショーペンハウアーなりの慰めも出てくる。つまり現象は因果的に必然だし、意志は時間的に変化しないので、自分で自分をどうこうすることもまた不可能だと。それを知ることが結局、釈尊の言う「執着するな」、そして意志の否定へと繋がっている、はずですね。ショーペンハウアー哲学のある種の清涼感はこの必然性にあり、ニーチェが惹かれたのもきっとこの辺のはず。