陰雑記

日陰者の日記・陰弁慶の陰口

仕事怠いのと自分の価値と

 一日中眠くてぼんやりしていた。作業ミスはするし、なんかグダグダだ。

 

 読書しながらブログを書けばええんやなって。ツイッター見てる場合じゃなかったんや。

 

 寝る時間になったら目を閉じて、朝になるまで死んでも開けない、と固く誓うことですね。そしたらスマホを見ることもないし、気づいた時には寝れてるでしょう。。

 

 足に変な感触があったので見たらユウレイグモでした。虫とか食ってくれるらしいので放置しようかとも思いましたが、さすがにまた足に登ってこられたら気持ち悪いなと思い、コップで捕らえて窓から外へ。

 

 読書してるとつい「これを読んだら次はあれを」とか「このペースで行ったら、今月は/今年は/生きてる内に、何冊読めるな」とか考えてしまいがちなのですが、良くないですね。今読んでるものに集中するべきでしょう。読むということを真面目にやるなら、今読んでいる本にこそ世界の全ての真理が書かれているのだ、ここに全てが懸かっているのだ、真理を物にして見せるのだ、、と考えて読まねばなりません。いや実際本に真理が書いてあるかどうかは知らないですけど、心構えとして。何にせよ今読んでいるものを蔑ろにして次に向かえば、次もまた蔑ろにするでしょう。

 

 仕事してると、下げたくもない頭を下げないといけない時があります。しかし私の頭に何の価値があるでしょう? この場合の価値って何でしょうか。ある文脈から捉えられた価値ですね。つまり社会的で客観的な価値です。相対的ながら、現実的な価値です。この客観性・現実性に従うのが古来倫理的と呼ばれてきたものだと思われます。我欲からではなく、外から自己を見て判断せよ、ってやつですね。そして実際のところ、外の環境との関わりなしで自己のプライドだのなんだのを守ろうとすると、それは傲慢であって、独り善がりであり誰も幸せにせず、その上自分が何に拘ってるのか分かってない場合がほとんどです。外と繋がっていない一個の人間の中に何か絶対の価値のようなものを見出そうとしても無理なのです。一個の人間の独自の価値すら、ある集団の中でそう教わったからこそ有効になる規範なのですね。故に個人は本来空しいのです。だから一般にまともな人は謙虚なのですね。やや乱暴に言えば、お前如きが何をそんなに威張って頑なな態度を取るのかと。これは万人に対し言えることなのです。

 (こういう話はある狭い範囲で、大体みんなが善人であることが前提で成り立つ理屈であって、もっと広い範囲の社会では成り立たないのですけどね。我欲の強い悪人を必然的に含むような構造の中では、「私に何の価値があるでしょう。。」とか言ってたらボロクソに使い捨てられるだけなので、これもやっぱり文脈に応じる必要はあります。まあそれでもやはり、本質的に自分なぞ、個人なぞ大したものではない、と思うことはどこまでも大事だとは思います。それあってこそ他者批判もできる訳です。)