陰雑記

日陰者の日記・陰弁慶の陰口

『嫌われる勇気』の思い出

 なぜか『嫌われる勇気』のことを思い出したので書こう。あの本は、、まあ勇気づけって意味では多分思い切りがよくて良い本だと思うんだが、如何せん「おっさんのお人形遊び」感が痛々しくてね。。いやほんと、著者の内心での自問自答形式だったらあそこまで激しい臭気は出なかったはずなのよ。何だ青年って。何だ「哲人」って(笑)。草生えるわ。対話っていうか説教だし。一人論破ごっこ。オナニー。

 

 「課題の分離」もさあ。自分の課題と他人の課題ってそんなはっきり分けられるのかね? 私がどういう態度を取るかによって、相手も私に対する態度を変えると思うのだけど、そうなると結局、「相手の反応を予期した行動を取ること」というのが私の課題になるじゃない。少なくとも「お互いに良い雰囲気でいよう」っていうのは常にお互いの課題であるべきでしょ? 気を遣い合わないと良好な関係なんか築けない訳ですよ。人間なんか元々勝手なもんなんだから。

 そこのところが「相手をコントロールしようとしてはいけません!」っていう謎の道徳的命令によって拒否されるんだけど、そんな人間関係ある? 多かれ少なかれお互いに動かし合うのが関係ってもんでしょう。全然リアルじゃないわ。だから「アドラー棒で叩く」って現象も出たんだし。

 

 極論、私の態度が原因で相手が私を殺そうとした場合、それは私の課題なんだろうか、相手の課題なんだろうか。「私の態度は原因ではない!その感情はあなたの課題!あなたが何とかすべきうぎゃあああああ」って言いながら殺されるんだろうか。アホか。

 

 この辺のことについてなんか書いてあったっけ? 従兄が激推ししてたから読んだのがもう10年くらい前(出版されたばかりの頃?)で、最初は割と感銘を受けて何度も読んだ(若かった、恥ずかしい)んだけど、何年か経って「くだらねー」ってなって売っちゃって、もう手元にないのよね。

 

 あとトラウマ非実在論もなあ。原因を否定するところまではいいのよ。因果関係はただの解釈だし。しかしなんでいきなり目的論に飛びつくのかね? 目的も解釈じゃん。原因=必然性を否定すれば即座に自由が現れるかのような書き方をしてた(と思う)けど、必然性の否定はまだただの偶然性であって、自由じゃないのよね。それをまず言わないと、原因論とは反対側にずっこけて終わりだ。結局、「外に原因が無いなら、内にあるに違いない!」って推論してるだけ。どちらにも原因が無い場合とどちらにも原因がある場合を勝手に捨てている。やり直し。

 「決断すればあなたは幸福になれるのです」とは言うが、決断がどう起こるのか、どう起こせるものなのかは一切語られない。ただ「決断しろ!決断できないなら、あなたは決断しないという決断をしています」を繰り返すだけだ。まあ決断を起こすためのもっともな理由があるなら、原因論が復活してしまうわけだが。自己啓発本というのはそんなものだと思う。自由を強調しすぎると安易な自己責任論にしかならない。

 

 とは言え心理療法的にはあの記述で正解なんだろう。まずクライアント自身が自分の自由を信じられないと、悩みは解決し難い。嘘も方便だと著者は言いそうだ。実際あれで何でもできるような気になって救われた人もいるんじゃないかな。アドラー棒は行き過ぎとしても。しかしそれは肝心の真理に反しているから、躁状態は長続きしない。

 

 とりあえずああいう本は親には読ませたくない。

 

 母の昔の職場にも信者がいて、大層な説教をかまして嫌われていたらしい。勇気があって自由な人間だ。なるほどな。精神的な自由は結構なんだが、嫌われる勇気を持って本当に嫌われてしまった場合、そこでできることの幅が狭くなって自由どころではなくなるのはよくある話。広い世界に飛び出したらそこでの勝手がよくわからずいっそう不自由を感じるのもよくある話。まあ好きにすればいいだろう。そのくらいの分離はできる。。

 

追記

 アマゾンの履歴を確認したら、買って読んだのは7年前、2016年だった。大学を2年留年することが決まってた時期だな。なるほど、そういう状況でこれを読んだから感動したのか。。そうかあ。。親の気持ちとか、将来のこととか、気にしなくていいような理屈が欲しかったんだろうなあ。。我ながら、哀れだ。当時読んでどのくらい気持ちが楽になったのか今となっては思い出せないが、絶対に必要な本だったのは確かだと思う。

 となると、今この本を貶したくなったのは当時に戻りたくないからで、それでも思い出してしまったのは今が当時に似ているからか。結局、やりたくもなんとも無いことを仕方なくやってる状況は変わってない訳だからな。