陰雑記

日陰者の日記・陰弁慶の陰口

哲学と偶然の話

 世間的な哲学ってもののイメージとして「何故」っていうのを突き詰めて考えていくってのがあると思います。例えば世界はどういう構造をしているのか?って疑問を科学とは違うアプローチで、例えばここに私がいます、物を見たり聞いたりして考えながら生きてます、私は世界の中にいます、でも世界って何かよく考えたら、現に見られて聞かれて考えられてるこれのことを言ってるだけで、それとは別に客観的な世界があるわけじゃないです、と、じゃあ客観的な世界ってなんなのか?それは私が勝手にでっち上げてる嘘なのか?いや私がそんなことできるわけがない、そもそも私はそういう知識を他人から教わったのであって……あれ?他人ってなんだ?私の感じてることが全てなんだったら他人はどこにいるのか?他人が私とは別にいるとしたら「どう」いるの?魂みたいなものがあるの?魂があるとしたら「どう」あるの?私の魂はあるの?無いなら私ってなんなの?私がいるってどういうこと?生きてるってどういうこと?気付いたら生きてたけどいつ始まったの?過去や未来を思ってるのは今なんだから、今しかないんじゃないの?時間って存在しないんじゃないの?じゃあ始まったことはないってこと?生まれたことがないならどうやって死ぬの?死んだらどうなるの?無になるの?無が有ったらおかしくない?じゃあ何かあるの?何があるの?え、分からないの?生前と死後に因果関係はあるの?無いの?有るなら具体的にどうなるの?無いなら因果関係って何なの?等々の観点から考えていくわけです。

 こういう疑問の数々は詰まるところ「これは何なのか」「何故こうなったのか」「どういう仕組み・構造をしているのか」っていう感じにまとめることが出来るんですが、しかしこういう「究極の構造」とか「究極の真理」みたいな話になると哲学っていうのはびっくりするほど浅くなるんですね。何かって言ったら究極の世界構造はこうだ!って答えを出したとしても、「そういう構造があるのはわかったけど、じゃあそういう構造自体はなんで存在するの?」っていう問いがすぐ出てきちゃうからなんですね。そうなるとこれはどこまでも続くんで、結局最後は「偶然ですね」って答えるしかなくなります。究極の真理も構造も神も、全部全部究極的には偶然です。そこから話は進まないのです。まあ偶然を出したら出したで、それは一個の真理を提示したことにはなるんですけれども。ある構造はそれ自身を自分の内に置くことはできないので、自分自身の素性を自分で明かすことができないんですね。(このことは科学的な説明についてももちろん言えますが、科学は哲学ほどしつこくないし、科学自身が語る構造を「たくさんある可能性の内の一つ」ではなく、「そもそも最初から存在している唯一の世界法則を少しずつ解明していっている」みたいに思ってるところがあるのであんまり問題にはならないです。要するに実在論が根底にあるから動揺が少ない。)だからそういう究極とか、深い話はもはや求められてないです。敢えて浅いところに留まって、実存的に言えそうなところを細かく言っていくのが現代風でしょうか。あと歴史とか社会の風潮についてちょいちょい口を挟むくらいで。