陰雑記

日陰者の日記・陰弁慶の陰口

労働したくないのと脳味噌の話

 朝起きたら喉が痛くて、風邪ひいたかな?と思ったが単に喉が乾いていただけらしく、しばらくしたら痛まなくなった。

 

  「(労働が)嫌だなあ辞めてえなあ、やりたくてやってるわけじゃねえんだよこっちは。。」という人に対して、「嫌なら(この職場を)辞めればいいじゃん」って返すの全く嚙み合ってなくて草も生えない。。構造上やらなきゃいけないことになってるから仕方なくやってることが、なぜか「望んでやっている」「望んでここにいる」ということにすり替えられ、「望んでやっている」以上そこには義務が生じるし、果たさないと顰蹙を買うという。めんどくせえなあ。まあそのすり替えもまた構造の一部ですって言えばそうなんだけど。実際「自分は望んでここにいるんだ」「ここで頑張ると決めたんだ」って思い込んでる人多いし。なんでみんなあんなに一生懸命なんかね?

 

 ……脳味噌の話でもするか……

 

 脳って概念に胸がときめくのは、別に脳の構造がどうの機能がどうのと言うよりは、この私という存在が正に「ここ」に存在するのだ、という、その「答えを得られた感」に由来するのだと思われます。

 しかし脳だけ他の身体部位から切り離して「これが私なのだ」と言うことには私は反対です。何しろ脳は脳だけで動いているのではないからですね。脳というのは入力した情報から出力情報を計算するものであって、入力元あっての脳です。脳に刺激を入力するのは脳以外の全身体です。だから私も脳じゃなくて全身体です。

 あるいは身体に刺激を与えているのは全世界なので、全世界が私だということにもなります。これは変な話ですけど、実際外界というのは目で見られ耳で聞かれ、そして脳で考えられたもののことを言うのであって、世界なるものの構成要素を考えればそれは全て身体に紐付きます。だから身体が世界です。この身体を外から見れば一個の物体です。内から見れば全宇宙です。

 脳だけ特別扱いされるのは、水槽に浸かっている脳の話が有名だからでしょう。確かに、脳だけあれば肉体の他の部分はなくても外界を作り出すことができるように思われます。しかしこういう想定をするときには大抵、その水槽の中の脳に情報を送っている外部の機械のことが忘れられています。その機械あっての脳であって、機械含めて全身心であり、私なのだ、という話なのです。

 完全に脳だけに閉じている想定(機械なしで脳の内部だけで外界を作り出している想定)もできますけど、それって多分脳ではないですよね? その脳は外部と一切繋がっておらず、繋がり得るものでもない訳ですし。外部に繋がってないのに一個で無限に動き続ける脳味噌って永久機関ですし、あり得ないですね。閉じた脳味噌は外界を作るための刺激を自分の中で一人でに発生させないといけませんが、どうしてそんなことが可能でしょうか。そもそもその脳味噌は世界内に存在していないはずです。外部との繋がりがなく世界内に存在していないものは、形も持っていません。ってことは結局、その脳味噌と呼ばれてるものは物質ならざる魂なのです。「脳さえあれば世界は生じる」ってのは結局、魂の話をしてたんですね。全然科学的ではないです。(その脳味噌が動き始めた時点があるなら、それは外部からの刺激があったはずで、閉じているという前提に反します。永遠の昔から動き続けているならそれこそ永久機関であって、成り立ちません。しかし魂なら自分から動き出すことも、永遠に動き続けることも可能でしょう。多分。)

 それで、「脳さえあれば世界は生じる」っていうのは長くすれば「この世界は幻かもしれない!私の見ている夢かもしれない!本当に存在しているのは脳味噌だけかもしれない!」ってことですが、その前提は「ここにいる私とは違った真の私」です。結局問題なのは魂、真の現実、真の主体です。それでそういう「真の」っていうのは正にここにいるこの私が思い描いているものであって、むしろ後から付加された想像だよねっていうのは全く自明のことです。それでそういう魂的なものを考えるのは、他人の意識について考えることと大して変わらんのです。

 なるほど他人の意識というのは本当は存在しないのかもしれません。だから同じように、この私の意識というのも本当は存在しないかもしれないよね、別の何かが考え出した想像に過ぎないかもしれないね、ということにもなってくるのです。でもそれがあり得ない理由は、まあ、単にここにいるこの私が唯一の現実だから、というこの事実に尽きます。他人の意識にしても、真の私にしても、今ここにいるこの私が思い描いて付与しているものであることに違いはないです。じゃあなんでそんな想像をするのか?って言ったら、窮屈だからでしょう。他人の意識を疑うのは、他人を気遣っているからです。鬱陶しい存在だから、「実はいないのではないか?というか、いないと考えた方がすっきりする」と考えます。存在しないものを気にする必要はないですからね。他人の意識の存在を否定したい人というのは、それだけ他人を気にしてるのです。

 同じように自分の存在がどっかの脳味噌の見る夢だと思いたい人は、それだけ自分を気にしています。自分が世界の中心でありたいって願望と、しかし自分の思い通りにはならない現実、ってことを合わせると、脳味噌の概念が欲しくなってきます。水槽に浸かった脳味噌の表現は大抵、「受動的な現実」の想像とセットです。どっかの脳味噌が自動で出力しているただの幻なんだから、自分の意志なんかないし、思い通りにならないのは当然じゃないか、、みたいなニュアンスがあります。にも拘らずその脳味噌は世界の中心であって、「私しか存在しないのだ」という妙な自尊心を擽ってもくれます。しかしそんな想像しなくても、別にこの現実が、この私のこの身体がそっくりそのまま、最初から理由なく、思い通りにならないものだ、ということを認めるだけでいいと思うんですけどね。余計な想像を挟まんでもいいと思うのです。しかしまあ、想像力ってのは大事なことですし、脳味噌みたいな比喩がないと事態を受け入れることができない、って人もいるはずですから、それはそれで価値のある話ではあるんでしょう。