陰雑記

日陰者の日記・陰弁慶の陰口

ライプニッツ『単子論』

 ライプニッツ『単子論』を読みました。岩波文庫の古い方。理解できたかというと微妙だけど大体は分かったからもう次に行こう。感想を書きます。

 

 想像してたよりだいぶ明晰に書いてくれてるなあという印象です。大部分意味が分かる。

 感想を書くというか、ライプニッツは初めてだったので、まずは何が書いてあったのかメモるところからですね。ショーペンハウアーライプニッツの体系については終始ボロクソ言ってたんで、あんまり関心がなかった。

 

(ざっくり理解したことの備忘録であり、正確な解説ではないです。)

 

 ライプニッツ曰く合成された実体(つまり物質、延長実体、部分を持っていて分割可能で、少しずつ形成されたり壊れたりすることが可能な存在者)が存在する限り、単純な実体も存在しなければならない。それが単子(モナド)であると。

 単純な、とはどういう意味かというと、それ自体が一個の全体として完結していて、全体として一気に生じる(創造される)か消滅するかしかないような実体であることを指すようです。そして内的にはそれぞれに表象する能力と、欲求=目的追及=努力する能力、を持っている、つまり質を持っているらしい。つまりモナドは精神的ってことですね。物は大きさ=体積=広がりを持っている、質はそういうもんじゃない、全的に現れ全的に消える、だから分割はできないし部分的・集合的でもない。

 なぜそんなことを言い出すのかというと、ただの死せる物質だけじゃ運動が生じないはずだからであると。力の原理が必要で、それは物質そのものとはまた別のところに起源というか、理由を求めないといけません。だから力、表象、モナドの観点から物質の運動も動物の意識も人間の心も理解されないといけないはずだと、こんな感じのことを言ってました。

 モナドは点に例えられ、モナドの集積で世界が成りたっているみたいな説明がされますが、しかし点をいくら積んでも大きさは形成されないので、これは考えが逆であって、世界内の合成されたどの部分を取ってきてもそこに必然的に存在しているはずの、精神原理をつかさどる中心、のようなものが考えられているんでしょう。つまり広がりを持たない点としての認識主観と意志とが至る所にある世界観。

 

 そう見るとなんかショーペンハウアーとかニーチェって、特にニーチェの権力への意志とかまんまモナドジーなんじゃないの?という感じがしますね。世界内のどの部分もそれとして自発性を持って、自由かつ必然に自己を発露しますよ、なんてのはそっくり。単なる物理運動も歴とした意志であると見なすところ、「生きている世界」を描こうとするところ、が似てます。まあショーペンハウアーだと意志は盲目であって、モナドみたいに一律で表象作用を持っているような想定はされてないから、そこは違うところではありますね。

 それで言うとやっぱり気になるのは、なんでそんなもんが有るって分かるのか?ってことですね。ショーペンハウアーやらニーチェやらにおいてはもちろん身体性がイメージの根底にあって、自分の身体をモデルにして世界を解釈している訳ですが、ライプニッツの場合は魂が根底にあったと考えるべきでしょうか。世界内の全ての部分が魂や自我を実体として持っているような世界観。

 権力への意志は、、対立するあらゆる自他がお互いに関係し合って全体を作っているその様相を言い当てたものであって、だから各権力の意志(ニーチェは「権力量子」と呼んでいたそうです)は実体として存在するというよりは、関係性の下で瞬間的に発露する、解釈しつつ解釈されるような、複合された一部分であるってことが強調されている、つまり飽くまで一個の全体生起を前提しているのに対して、モナドは飽くまで各個独立した実体ですし、それぞれに表象と欲求を持っているって辺り所謂「意識」がモデルになっていて、意識の積み重ねによって全世界が成立するって辺り、やっぱり細かいものを積み上げていった結果として世界全体が成立するようなイメージなんでしょうか。ライプニッツ的には、「モナドがまずあってそれが関係する」、ニーチェ的には、「関係のあるところに、その表現としての権力への意志がある」って感じですね。モナドは分割不可能な単純な実体だけど、ニーチェ的には分割不可能なものは何処にも存在しない。

 ただの物体をイメージしてみると、確かに概念としての純粋な物体はそれ独自の運動をしていない。動きが発生するためには何らかの自発性が必要なはずで、それは実体としての物には期待できない。だからモナドが必要で、、という流れなんでしょうかね。時間的展開が成立するためにモナドが必要と。現代の我々からすれば物体っていうのは最初から運動してるものであって、「なぜ動くのか?」っていう問いは「最初から動いていたから」で素朴に片付きますし、「動き出した瞬間」っていうのをあんまり気にしないで済むんですよね。でもライプニッツ的には充足理由律に拘ってましたから、運動の理由としてのモナドがどうしても必要だったと。カント〜ショーペンハウアーに行くと、運動の理由は因果律ともどもこちらの認識主観の作用に回収されてしまう訳ですが、ライプニッツ的にはもうちょっと直接的に万物が生きているような世界イメージなんでしょう。多分。

 

 「予定調和」については、分かるような分からんような。モナド内世界はそれぞれに完結しているから相互に作用しない、しかしあたかも相互に作用しあって特定の結果を作り出しているように見えるし、実際物理法則が存在する、これをどう解釈するか?ってところで、「実は相互作用はしてないんだけど、しているように見えるように神が予め設計しておいたのだ!」という考えが予定調和説、らしい。言ってることがあまりに阿呆だと、まさかそんな阿呆なことを真面目に言っているとはこちらも思わないわけだから、無駄に考え込んで混乱してしまうんですよね。いや、それは言い過ぎか。

 いや、そもそも問題設定自体があんまり理解できてないような。私のモナドからするとAさんは右手を上げてるように見えるけど、Aさんのモナド的には左手を上げていました、みたいな混乱が起きないのは何故なのか、みたいな問題なんでしょうかね?

 そもそもそれぞれに完結しているんなら私は私自身のモナド(自我としてのモナド?)しか知ることができないはずで、それ以外のモナドはただの表象というか、概念としてしか存在しないんですが、そういう概念的モナドが実体として実在する!っていうのが一体どんな事態なのかよくわかんないんですよね。そういう超越性はどうして可能なんですかって言ったら、それも予定調和的に(つまり初めからそれが可能なように神が作っておいたという形で)可能なのだ、ってことになるんでしょうか。

 

 心身問題についても色々言っていました。物と心の関係の話ですね。心身問題についても正直私はちゃんと理解できているのかよくわからない(あんまり問題に興味がない)んですが。。知ってる流れ的には、デカルトが哲学的に物と心を分けました。分割可能な物に対し、分割不可能な心があると。物があるのは直観から明らかですし、心が物と違うのは、つまり外界にある何を指差してもそれは心ではない、というところから来ます。多分。見て触れて壊すことも作ることもできる物に対して、心は見えないし聞こえないし、触れられないです。常に見て聞いて考える側にあるのが心で、対象にならないんですね。だからこの2つは全く別物で、別である以上相互に作用することはないはずで、別々の原理に従っているはず、なのに常に物と心は連動しているように見える。それで、物と心がどう関係するのかが問題になります。つまり心で思った通りに身体が動くことであるとか、物を見ることで何らかの印象とか感情とかが惹起されることであるとか。

 これについて、まあ、神様が上手いことやってるんでしょ、というのが回答として与えられましたが、これもライプニッツ的には予定調和だそうです。飯を食って美味いと感じるのは何故か。……実は飯を食うことと美味しさの感覚は全く関係ないんだけど、神様がちょうどその時飯を食ったら美味さの感覚が口内に生じたかのように思えるよう私の心を作ったから。……そう。。或いは不味いものを口に入れた時、心の中では「まずっ!」と思っているのに身体は何故かすごく美味しいものを食べた時のリアクションをしている、とかの混乱状態が起きないのは何故なのか。……神様が予め上手いこと作っておいたから。うーん。そうか。。

 

 「電光放射」って概念も出てきたけどよくわからん。どうも全てのモナドは最初にそれを作った神の意図を受け継いでいる、瞬間ごとにそれを表現している、みたいな感じらしいんですが、それを言ったら機会原因説(物理的な原因は真の原因ではない、真の原因は神である、って説)と同じになっちゃわないんだろうか。いや機会原因は、それ自体で閉じて完結した瞬間に伴う偶然性の表現として言われたものだと解釈できるような気がするけど、ライプニッツの場合は全知全能最善の神が予め見通しておいた最善の世界が生起することを電光放射って言ってるんだから、必然性を放射してることになるんだな。……それは結局何を放射してることになるのか? よくわからん。

 

 まあ疑義を投げつける前に、もうちょっと勉強しないとですね。またそのうち。ライプニッツの他の著作とか、入門書とかも読んでみたいなあ。

 

 

もうちょっと整理。

 複合的な実体、合成したり解体したりできる実体が存在するのなら、単純な実体もまた存在せねばならない。単純な実体は分割不可能でなければならず、分割不可能なものは大きさを持っていてはならない。物的に分割不可能な原子は想定できない。だから単純な実体は心的である。

 静止した死せる物質に対する運動・生の原理。全ての単純な実体が内発的に作用する。

 何物も外からは動かされない。現代的な運動は全て他の物から動かされることの連鎖に過ぎないが、ライプニッツの世界は内的自発性に基づく。

 外から動かされているかのように見えるのは、神様がそう見えるように作っておいたから(予定調和)。