陰雑記

日記とか

読書態度とか

 一週間分の労働を終えた。今日は多少仕事をしたな。久し振りに軽い改修と単体テストを。

 割と暇な日に在宅勤務でも、仕事中に読書をしようって気にはならないんだよなあ。そういう気分にはなれない。

 

 足の筋肉は割と強くて、片足スクワットも多分できると思うんだが、体が固過ぎてあのコサックダンスみたいなポーズができない。

 

 私は読書が好き、、だと思うし、毎日もっと本が読みたいなあと思いながら生活している。が、実際暇さえあれば本を読んでいるかというに全然そんなことはない。ゲームをする時間もツイッターを見る時間も長い。大前提として本を読むのには体力が要るので、一日の労働を終えた後さらにやるのは結構厳しいということだ。これは実体験から明らかだ。それでもやっぱり読書はしないといけないことだ。

 

 全ての読書が楽しいかと言うとそんなことはない。楽しい読書というのは実際のところ、既に自分が知ってることを再確認しているだけ、ということが多いのだ。それで肯定感・安心感が得られるからだな。何かしら学ぶための読書というのは知らないことを身に着けようとする訳だから、まず理解に苦しむことになるし、内容は覚えないといけないし、他の物事と関係させて整理していかないといけない。

 

 まあもちろん、読書で感動した経験があるから今もやっているのではある。私が大きく感動したし影響されたのはショーペンハウアーの著作と、あと出身がばれるから詳しくは書けないが大学で講義を聞いた哲学の先生の本だ。両者に共通しているのは何か? 言っていることが私の性に合ったというのがもちろん一番大きいのだが、それと同じくらい文体が良かった。自分の考えたことを明確に一つずつ表現していくその的確さだ。それでその、、相当馬鹿な学生だった私も初めて、少なからず「物を考える」ってこと自体に憧れるようになったんだな。レポートを書くのもそんなに嫌ではなくなったし、なんでもいいから考えて書くのが好きになった。日記を書くのも好きになったし。元々、読むのも書くのも全然好きじゃない。ショーペンハウアーがいなかったら大学を卒業できなかったかもしれん。レポートの書き方を書いた本より遥かに役に立った。

 先生は「本を読まないと馬鹿になるぞ」と言っていた。加えてショーペンハウアーは「本を読み過ぎると馬鹿になるぞ」と書いていて、それが私の読書姿勢に影響している気がする。読まなきゃいけないけどそこまで熱心でなくてもいいよね、という感じだ。

 

 基本的に定評のある本、というかその先生が学生向けに推薦していた本を種にして、そこから参考文献欄とかを辿って本を読んでいる。その方が安全だ。本屋とか図書館に出向いて目についたものから選ぶというのはここ数年してない。定評のある本に対しては安心して謙れるから良い。分からないのはこっちが悪いのだ。

 

 初めて読む書籍というのは基本つまらなかったり、よく分からなかったりする。むしろそこから出発した上で、読み込んでいくうちに段々面白くなっていくというのが読書の醍醐味だと思う。一読して理解不能な本は理解できるまで読み続けるか、入門書なりを読めばいい。無味乾燥な本については、まずその味わい方を探って覚える必要がある。そこに創意工夫があるはずだ。だからとりあえず読書したら感想を書いておくというのが大事になる。感想を書くというのが鑑賞することの練習になる。ある程度は味わえないと感想も書けない。

 

 という訳でまとめると、結局私は書くために読んでいるということになるらしい。また書くことを通して鑑賞の能力を向上させたいらしい。それでまた何か感動できるものを見付けられれば、そこが思索の出発点にもなるんだな。読むこと自体が目的じゃない。少し整理がついたな。