陰雑記

日陰者の日記・陰弁慶の陰口

良い休日だった

 部屋を片づける。重さを変えられるタイプのダンベルのプレートが邪魔だったので、机の裏にある数センチの隙間に移動。本当は1階に置きたいんだけど適切なスペースがない。

 重いものだと本当は書籍を1階に置きたいんだけどこれも駄目だ。2階に重いものを置きすぎると床が抜けることがあるらしい。床がミシミシ言ったりすることはないから大丈夫なんだろうとは思うが、普通に考えて重いものをあんまり上の方に置くべきではない。

 

 ぬいぐるみを処分したい。プラスチックの大きめのコンテナ2箱分あってクローゼットを圧迫している。普段取り出してみることは全くない。しかしいざ見るとやっぱり可愛いし、どれも子供の頃買ってもらったやつで、ずっとあるなあと思うとそれだけで離れがたいし、「これお父さんがレンタルビデオ屋のUFOキャッチャーで取ってくれたやつだ。一緒にあの、お菓子をすくって落として取るやつやったりして、キャンディ舐めて帰ったりしたなあ」とか余計なことが思い出されて捨てるに捨てられない。

 

 あとは学生時代の講義で貰ったレジュメとか、そろそろ捨ててもいいな。

 

 お父さんがケンタッキーフライドチキンを買ってきたので食い、コーラを飲んだ。フライドポテトと、ビスケットなるパイ生地の何かも一緒に食べた。夜ご飯いらないかもしれん。

 

 床に放り投げて1年くらい経ったYシャツを拾い上げてみたら酷いことになっていた。ヒメマルカツオブシムシの脱皮した皮がたくさんついていて、一際大きい皮の近くに成虫がおはしました。潰さなきゃと思ってわたわたしてたらいなくなっていた。

 

 思想の話。

 結局のところ問題になるのは苦痛であって、苦痛から話を始めない哲学、なんかよくわからん知的な「問題意識」?みたいなものから話を始める哲学は全部生理的に受け付けないところがある。だから結局仏教とか、西洋ならストア派哲学とか、ショーペンハウアーニーチェとか、そんなところに関心が集中する。

 苦痛は結局なぜ苦痛なのか、って言ったら、仏教的には「思い通りにならないから」苦痛なのだっていうのが現実的な答えになる。一切皆苦っていうのは、「起こることは全て苦しいことばかりだ」って意味ではない。それだったら、「楽しいこともあるじゃん」っていうのが有効な反論になるだろうが、そうじゃない。苦しいことも楽しいことも、根本的に見てコントロール不可能だ、っていうことこそ一切皆苦ってことであり、だからこそそれは諸法無我に直結するのだ。

 だから苦痛への対処法とか、苦痛を乗り越えた境地とか、そういうものを想定してもあまり意味が無い。そういう立場自体が無我であり、無常だからだ。如何に完全に思える対処法を身に着けてもその対処法をうっかり忘れてるときにはどうしようもない。苦痛についての理論・理屈を立ててどうこうしてもその理屈自体が当てにならない。未来永劫に不安を脱することはできそうにない。

 じゃあどうすればいいかというに、どうしようもないので、色々と工夫を凝らしてきた歴史がある。例えば念仏とか。どういう理屈で救われるのか、弥陀の本願を信じるとか色々理屈はつけているけどそういうのは方便で、「とにかく」唱えりゃ救われるんだ!ってところに旨味がある。しかしこれも「念仏を唱えること自体忘れてる時にはどうすればいいの?」って話になるので、やっぱり「対処する」って発想自体がいかんのだと思う。「これをすればOK!」って考えなら、「それができない時は?」と問われる。だから究極的な救済は「何もしなくてOK!」という方向にまとまっていく。こういうのが天台本覚思想でいったん完成されたんだろう。そこからは「苦痛に対処しないことが最大の対処である」みたいな超然とした態度が出てくるが、そうでないと未来の不安は拭いきれない。

 

 夜ご飯やっぱり要らんかった。

 

 やっぱり労働が暇で余裕がある方が、休日の体調も良くなるな。今日は眠くならないし、ずっと何か考えていられるし、読書時間は長く、スマホを見ている時間も少ない。