陰雑記

日陰者の日記・陰弁慶の陰口

肉を焼くのが下手な親父と反出生主義についての日記!

 日高屋でラーメンでも食って帰ろうかと思ったんだが、蒸し暑かったし、狭い店内を見たら入りたくなくなった。無駄に歩いただけになった。家に帰って袋麺でも食おうと思った。

 

 そして帰宅するじゃん? その頃には別にラーメンじゃなくていいかと思ってたんだけど。で、親父が豚肉を焼いてあげようとか言い始めるわけよ。で、自分で焼くからいいよって断る訳ね。だって自分で焼いた方が間違いなく美味いもん。でもやたら押してくるわけ。「なんで?焼くよ」って言ってくるのよ。多分善意で。じゃあお願いしますってなるじゃん。でシャワー浴びてる間に焼いてもらったのね? 下手糞! 肉から水はじゃんじゃか出るわそのせいで温度が上がらず焼き目はついてねーわその水を紙で拭き取りやがるわ。これ茹でてるのと一緒だよ?いや水気と一緒に旨味も抜けてるし、茹でるの以下よ? でそのいろいろ抜けた残りのカスを食わせるの? これが疲れて帰ってきた息子への仕打ちですか。新鮮な豚肉が、これじゃ台無しだぁ。。しょうがないからポン酢で食ったわ。茹で以下の失敗作を最大限カバーできるのはポン酢しかない。ちゃんと焼けば何もつけなくても美味いのになーあああ。…………実際ポン酢に浸してご飯と一緒に食べたらそこそこ美味しかったです。笑。

 

 ぎりぎり冷房はつけなくてもいい程度の暑さだな。

 

 昨日ちょっと反出生主義に触れたし、今日も書いておこうかな。

 なんかどっかの反出生主義紹介サイトかなんかで「人生には続ける価値はあるが、始める価値は無い」みたいな言葉が紹介されてて、なるほどと思ったのを思い出した。そうだ。反出生主義は自殺を推奨しないのである。一度生まれたからには生きるしかない。生まれたからこそ、動物的機能としての生への執着もまた生じる。自殺をするのは苦しいし、自殺するまでの過程はもっと苦しい。そもそも死のうと思って死ねるものではない。思いがけず助かって(?)しまったり、辛い辛いと頭では思いつつもどうしても死ぬ気になれない場合もある。それは「本当は生きたい」からではない。ただ死にたい気持ちに体がついていかないのだ。

 単細胞はここで「それは矛盾だ」と主張する。「生きてるってことは死にたくないってことで、それが自分の意志だ。死にたきゃ今すぐ死んでみせろ。できないならお前は生きたがっている。生きたくて生きてるんだから、何が起きても自己責任だ。嫌なら死ね。」……というような理屈なのかなんなのか分からん何かが主張されるのも見たことがある。「自分の意志すら自分の思い通りにはならないものだ」という当たり前のことをさっぱり考えられないらしいのだ。それもまた彼らの意志ではないから仕方ない。それほど馬鹿な存在に生まれてきてしまったことが不幸なのだ。生まれたのが問題であり、本人のせいではない。そして「自分の意志すら思い通りにはならない」という状況自体が、生まれて初めて生じたことでしかないのだ。「嫌なら死ぬ」が本当に誰にでも即座に明るく実行可能なら、悩む人などいるはずもない。

 最終的な人類滅亡を是認することから勘違いされやすいが、反出生主義は逆説的に、生きるため・生かすためのものであって、死ぬため・殺すためのものではない。そもそもが倫理なのだ。生まれないのが最善だが、生まれたからには少しでも楽に生きられるようにしなければならない。この世に生まれる価値がないことを示すために、地獄をわざわざ作り出す必要はない。ひたすらに快楽だけが与えられる楽園のような幸福な世界であってもなお、生まれるには値しないからである。何故ならそのような快楽を、未だ生まれていない存在者が求めることはないからである。同様に、「醜かったり馬鹿だったり虚弱だったりする人間を産むことが良くない」というのも誤りだ。美しく賢く強健な人間でも生まれるには値しないのだ。

 生まれていないものは、生まれないのが良い。生まれたものは、せめて世界そのものが生まれるに値しないことを明瞭に認識した上で、どうにか耐え易く生きていけば良い。上手く死ぬことができるなら、それを止める必要はない。ただし死を勧めもしない。生まれてきてしまったからには、生きるも苦しく死ぬのも苦しいのは必然だからだ。

 

 反出生主義に対する最も有効な反論は、実際に子供を産んでしまうことである。生まれた子供に対し反出生主義は何もしない。自殺は勿論推奨できない。苦痛は最大限除かれるべきだが、そのことはもう、反出生主義の範疇ではない。

 反出生主義はただ産んでしまう前に、産むべきではないということの理路を、考え方を示すのみであり、「これを理解しよく考えてくれ」と要求するのみである。反出生主義を「押し付ける」ことはできない。「押し付け」とは例えば妊婦を見つけ次第腹を蹴りまくって流産させるとか、性交の現場に乗り込んで物理的に行為を阻止するとか、そういう実践のことを言うのである。これは勿論この世の苦痛を増やすことであって、苦痛を最小化する趣旨に反し、論外である。反出生主義はただ思考を促すのみである。

 また反出生主義は倫理である以上、思惟や直観に則って動く主体とその主体の意志を認めてはいるものの、そもそもの出生、人生の始まり自体が思い通りにならない、突拍子もなく始まってしまうものであるという前提からして、当然「思った通りにはならない」ということ、「事象も自分の意志も思い通りにならない」ということもまた受容せねばならない。始まりが思い通りにならないのに、何故その後は思い通りになると思うのか? 意志は半ば現実、半ば幻想なのだ。だからこそ、産んでしまった人間を責めたり罰したりすることもできない。彼らは産む主体として加害者であり、産まれたものとしてはまた被害者でもあるのだから。従って反出生主義の倫理はそもそも「加害者・被害者」や、「責任者」という観点から語られてはならない。誰が誰に害を与えるかは問題ではないのだ。ただ「それは害だ」という認識を与え続けることだけが誠実なのだ。