陰雑記

日陰者の日記・陰弁慶の陰口

仏教とかショーペンハウアーとか

 絶望の日曜ではなく安心の日曜。貴重。明日も休みその次も休み。ふふ。今日も沢山眠れるぞ。少なくとも連休前半は楽しく過ごせるでしょう。残り3日を切った辺りで憂鬱になるでしょう。。

 で、今日は昨日に引き続き本を色々参照しながら考えを纏めていました。釈尊ショーペンハウアーは似てるようで微妙に似てないから一緒に並べるの良くないのかもしれんなあ。ショーペンハウアー自身は「俺の言ってることは仏陀の言ってることと全く一致してる」みたいに言い張ってるけどさあ。主に苦痛の扱いが違う。。釈尊は無常に依拠して生老病死とか愛するものとの別離、憎いものに会うこととか、時間的展開に軸をおいて苦しみを語ってるんだが、ショーペンハウアーはそもそも意欲するということは欠乏・不足にその基盤を持つ、だから意志を本質とする存在者は普遍的に苦しんでいるんだ、みたいな、飽くまで時間を超越した物自体の意志に由来する苦しみに主軸を置いている、、ように見える。どうなんだろうな。まあいいか。一切行苦ってところは両者共通だし、重要なのはそこだけでしょう。とはいえ私としてはショーペンハウアーの苦痛観により賛同を覚える。こっちの方が、何をどう認識しどんな行為をしようが要するにそれは苦痛なんだ、っていう真理を概念的に明確に表現できていると思う。生老病死とかで変に苦痛を個別化・具体化してしまうと、「でも私はそんなことでいちいち悩んだりしませんけど??」みたいなこと言う馬鹿が出てくるからな。そうじゃない、そもそも存在してる時点でそれは必然的に苦しみなんだ、その自覚を持て、とこう言いたい。

 まあいいや。釈尊も時間的展開だけに依拠して言ってる訳じゃないしな。四諦だって別に、苦しみの生起→苦しみの原因分析→原因の排除→苦しみの消滅とかいう時間的な流れを言ってるわけじゃないし。そういう誤解もあるけど、そんなもんただのなぜなぜ分析やんけ。釈尊が原因って言うときは大抵愛着=執着=拘り=取捨選択する心等々のことだ。執着があると苦しみがある、執着がないと苦しみもない、ってことを言ってるわけだから、まあこれは無時間的真理であると言っていいだろう。って言っても四諦の真理そのものが無常で、その都度達成できたりできなかったりすることが新たな苦であるわけだが。

 うーんそもそも苦というのは古代インドでは「思い通りにならないこと」の意味なわけで、たとえ生きてて楽しいことがあったとしてもその楽しいことというのは別に私が思ったから起こったわけじゃなくて、たまたま運に恵まれたから起こっただけであり、根本的に思い通りにならないという意味でやっぱり苦だよね、というのが原始仏教的議論なんだろう。やっぱりショーペンハウアーの言ってる苦(意欲が存在している時点でそれは苦、とか、生存を維持するための努力が苦、とか、意志が他の意志を否定しようとして闘争し合うから世界は苦、とか)とはちょっと違うような気がするなあ。ショーペンハウアー因果律に依拠した意志の不自由については嫌というほど語ってるけど。でも思い通りにならないから苦痛なんだ、っていう文脈ではなかったような気がするなあ。飽くまで形而上学的に人間行為の客観的必然性を説いてるだけだし。一方釈尊は別に必然性がどうとか言わないよなあ。そもそも運命論とか完全な偶然論とかは、仏教登場以前に語りつくされてたらしいし。釈尊は一切が無常だとは言うけど、必然だの偶然だのとは言わないし多分訊いても「無記」だろう。そんなんいいから心を鎮めろとしか言わなさそう。因果については多少は言うけど、それもやっぱり無知とか愛着と苦痛の関係について言ってるだけであって異時的因果関係を言った訳では、、となると、苦痛の発生については割と釈尊が時間的に語りショーペンハウアーが無時間的に語ったのに対し、因果については釈尊が無時間的(同時的)に語りショーペンハウアーが時間的に語ったという対照がある、のかもしれん。相当に雑な整理ではあるけど。