陰雑記

日陰者の日記・陰弁慶の陰口

修行するぞ!

 起きて仕事して休んで寝て、起きて仕事して休んで寝て。毎日新鮮な不安・緊張・苦痛・疲労の繰り返し。普通はこの中に「家族を養うため」とか「社会を良くするため」とか「自分が成長するため」とか色んな価値を挟んでどうにかするのだけれど、私はそういうの信じてないので、剥き出しの苦痛をそのまま受ける。

 こういう価値は現代版宗教であって、まあ、確かに人を救ってはいるな、と。神のための労働、救われるための労働、魂のための労働・・・そんなことはない、神と違って社会も家族も私自身も実在するじゃないか!と突っ込まれる。そういう態度がまさに宗教的なんですがね。疑うとバチが当たったり地獄に落ちたりするからね、しょうがないね。そして現代でバチを当てるのは神ではなく、善良な一般人の皆さんなんですね。それは昔からそうか。

 因果応報っていうのはかなり正しい。やったことは全部自分に返ってきます。それは世界がそういう法則になっているからではなく人間たちがそうしたがるからで、例えば労働しない人間が酷い目にあうような社会構造を自分達で作っておいて、実際にその中で非労働者がひどい目に遭うと「ほら見ろ、因果応報だ!」と言い出す訳です。因果応報で、そうなるのはそう決まっているから、だから救う必要はないし、そんなことはそもそもできない、と。いやいや、やってるのあなたですよね?と。ああそうか、教義は権威のある人によって決められるものだから、末端の構成員が自覚する必要なんかないのか。むしろ自覚しないことも教義に含まれてるのね。ははは。挙句の果てに「人々を甘やかしたら社会が崩壊するぅー!」みたいなね。神の怒りを買って人類滅亡。そういう設定。

 あーくだらね。本当はもっとやりたいことあるのになあ。俺の休日はすごいぞ。すごい充実してる。読書して、何か書いて、昼寝して、散歩するんだ! どうだすごいだろう! 平日は・・・平日? 行動制限される日が平常の日とはこれ如何に。緊急事態だ。異常事態だ。労働は災害だ!!

 全くもって人間たちは今だに宗教的です。何が「宗教が死んだ時代」だ。そこら中で生きとるわ! 結局やってることは今でも正統と異端の議論と、神もとい世間の皆さんの意志に基づく異端の排除。現代社会を楽しめる皆さん、既存宗教の枠組みに上手く乗っかれて良かったですね。というと今度は「乗っかったんじゃない、主体的に参加しているんだ!」と。己が宗教的であることを自覚してなお、俺はこれが最善だと確信してそうしているのだ、自由なんだ、主体なんだ!!ってね。はいはい。宗教に主体性は大事ですよね。それじゃどうしようもないね。私もそろそろ回心しなきゃね。さあみんな、修行するぞ、修行するぞ、修行するぞ。