陰雑記

日陰者の日記・陰弁慶の陰口

ルター『キリスト者の自由・聖書への序言』

 ルター『キリスト者の自由』(岩波文庫)を読みました。私はキリスト者でもなんでもないので上っ面的なことしか言えませんが、感想を書きます。実際ね、キリスト者の気持ちを知りたかったら実際に神を信じてみる以外に方法は無いと思います。これはキリストだけじゃなくて仏様でもアッラーでも一緒ですけどね。しかし「気軽に信じてみる」なんてことはできるわけもないので、せめて読んでおくというわけですね。

 「キリスト者の自由」と、ルターがドイツ語訳した聖書に付けた序文3つが収録されていました。どれにおいても共通で主張されているのは、「形式的な善行だけに囚われるなよ、神への愛や敬意、正しい信仰が根底にあってこそ善行も価値あるものになるんだぞ」という警告ですね。ルターといえば宗教改革の人で、免罪符(贖宥状)を批判したことで有名ですが、この考え方はそういう歴史的文脈以上に広い範囲で有効だと思います。

 カントの定言命法にも直結していると思いまいした。ただ外的に善いとされていることをするだけじゃなく、それが(自分の都合とか「善くありたい」って願望、自己愛からじゃなく、)神への信仰、神への愛から出たものじゃないと意味ないんだと。単に義務に適った行為をするのではなく、義務への尊敬から出た行為だけが真に「善い」のだ、って考えですね。つまり偽善と真善をはっきり分ける考えです。宗教的熱意を感じますね。

 

「・・・たましいにしたがえばあらゆるものなしに私自からをより善くし、死と悩みとさえも私には役立って祝福にいたるのである。まことにこれは高貴な栄誉ある品位であり、正しく全能な主権であり、霊的な王国である。信じさえすれば、どんなに善くともどんなに悪くとも、何ものも私に益しないものはない。しかも私は何を要することなく、ただ私の信仰だけで私には充分なのである。見よ、何という貴重な、キリスト者の自由と権威であるかを。」(28)

 

 何をするにしてもまず神への愛が重要なんだと。神を愛していさえすればどんな苦難が襲ってきても大丈夫だし、救済は約束されているし、また自ずと善を行うこともできるようになってくるはずだ、ということのようです。キリストが救ってくれる、というのもそうなんですが、それ以上に自分もキリストのようになりたい、と思うことが尊いんやで、って書いてあって確かになあ、仏教だって本来は仏陀になることを目的にした教えだしなあ、と思いました。どの宗教も自分を高めるためにあるんですねえ。

 

「見よ、ここにパウロキリスト教的な生活を説いて、あらゆる行いが隣人に益することを目的とすべきゆえんを明らかにし、そして人はそれぞれ己れ自身にはその信仰においてみち足り、そのほかにはすべての行いも生活も余分であり、まったく自由な愛からおのが隣人に仕えるためにこれを用いるべきであるとしている。このために彼はキリストを模範として挙げて言う、さればあなたがたがキリストにおいて見ているのと同じ思いをいだきなさい。彼は神のかたちにみたされ、己れ自からには欠けるところなく、義となり祝福されるために自身にはその生活も行いも苦難も必要とされなかったにもかかわらず、彼はこれらすべてのものを脱ぎすてて、僕の姿をとり、あらゆることを行い且つ忍び、わたしたちの最善のほかに何をも顧みられなかった。すなわち彼は自由であったにもかかわらず、われわれのために僕となりたもうたのである。」(43)

 

 まず自分が神に満たされて、それからそれが溢れるようにして隣人の益となるよう実践せよと。もちろん、神を信じさえすれば自動的にこれができるってわけじゃなくて、こちら側の意志の力も必要だと言います。身体的欲求は制御され、正しい方向に昇華されないといけない。人間が完璧に霊的になれるのは死んだ後のことで、生きてる間は肉体があるから、訓練・修行が必要なんだと主張されてます。

 

「彼は地上ではなおこの身体的生活のうちにとどまり、従って彼自身の身体を制御しまた人々と交りを続けなければならない。ここに行いが始まるのであって、彼は無為に時を費すということは許されない。肉体は断食、徹宵〔勤行〕、労働、その他あらゆる適度の訓練をもって強制され鍛錬されることによって、内なる人と信仰とに服従しまたこれと等しい様相に化し、かくて強制されない場合にあり勝ちな妨げや反抗を試みることのないようにならなければならない。なぜなら内なる人が、かくまでに彼にたいして多くをなしたもうたキリストの故に、神と合一し、よろこび楽しむとともに、彼自からもまた報いを期待することなしに自由な愛をもって神に奉仕しようとする、ここに彼のあらゆる喜びがかかわっているのである。」(33)

 

 こっからあれですかね。「熱心に労働できることは神からの恵みの証」みたいに逆転した理解がされていって、自分が救われていることを証明するために熱心に働く、プロテスタントの労働倫理ができていく感じなんでしょうか。なんかこの「自由な精神から自発的に労働!」って現代日本でもよく聞くような、みんなが自然に内面化してるような節がありますし、ねえ。やだわあ。もちろんルターさんはそんなこと言ってなくて、「まず霊的な救いがあってから労働するんだぞ、じゃなきゃそれは善行にも何にもならないぞ」ってきちんと連呼してるんで、こんなこと書くのも的外れではあるんですけれども。しかし内面的な救いは目に見えないですからね。そこに虚栄心が入ってきて、救われてるふりをみんながし始めるっていうのは必然だったかもしれないですね。(この辺ただの勘。あんまり自信ない。)

 

 まあとにかくね、、私聖書は読んだことないんですが、聖書の中ではこれが特に優れてるぞ!まずこれを読め!っていうのが紹介されてて今後の指針になるなあと思いました。

 

ヨハネ福音書と聖パウロの手紙、なかんずくローマ人への手紙と、聖ペテロ第一の手紙とは、あらゆる書のうちで真実の中核また精髄であり、当然第一のものとせらるべく、どんなキリスト者にも最初に且つ最も熟読させ、しかも日々これを読むことによって日常の食物のように親しむにいたるように、すすめらるべきである。」(65)