陰雑記

日陰者の日記・陰弁慶の陰口

集団での義務。。

 人間は秩序に服するようになっている、というか、予測不可能な混沌を恐れる動物なのに安心して頼れる本能がないので、行動様式を自分たちで決めています。お互いを予測可能な存在に仕立て上げないと安心して生きていけないからですね。秩序が必要で、秩序は常に集団の秩序です。自分一人でいる時ですら、集団を前提した行動しかできません。(「一人でいる時にできる適切な行動」というのも社会的に決まってるのです。)なので人間は社会的な生き物だということになります。社会的というのは人間の場合は、規範的ということでもあります。適切な考え・適切な行為・適切な反応等々を決めるということが人間的なことです。これがないと何をしたらいいか分からなくなってしまうのです。

 それで規範ってどうやって決まるのかっていったら、まあ歴史的に決まるんですが、具体的にどう決まるかはとてもじゃないけど追えません。色んな要因によって、とかしか言いようがないです。

 

 毎日労働していて、「これが私の義務だ、とにかくこれをしなければならない、っていうのは、一体どういうことなんだろう?」と考えています。やりたくないのになんでやってるの?っていうことなんですが。

 集団には目的があります。集団に属するってことはその集団の目的に合わせて動かないといけないってことです。集団は組織です。みんなが好き勝手してたらそれは集団じゃなくてただの人の集まりになってしまいますから、当然ですね。

 誰でも自由に参加可能、というのでもやっぱり組織が崩壊するので、集団に入るためには必ず試験がありますし、募集人数も限られています。それら条件をパスしないと入れないから、入る気がない人は入れないようになってます。だから集団に属している人は、望んで属していることになります。「入らせていただきたい」と頼んだことになるんですね。それで、入るのは自由じゃないんですが、出るのは割と自由だ、ということに一応なっています。嫌なら出ていけばいい、出ていかないなら従ってもらう、というのが集団の論理です。それで集団の成員には義務が課せられます。

 生まれる国や家族は選べませんし、気づいたら属しているものです。選べませんが、国に属することにおいても法律を守る義務はあるし、家族内でも守らねばならないルールというのは、意識されているいないを問わず必ずあります。出発点が選べなくても、「嫌なら出ていけ」という主張が成り立つ限りは、義務も有効になります。

 義務というのは自由が保証されてこそ成り立つものだと思います。自由がないのに義務だけあるっていうのは、つまり脅迫されてそうしてる状態です。義務に服している限り、義務に反する自由は認められない訳ですから、自由と義務っていうのは対立するかのように見えますが、そうではないと思うのです。義務から逃れる自由がないと、義務は義務とは言えないんじゃないでしょうか。つまり義務という概念と、自由の概念は結びついていなければならず、それがここで言っている規範であり、「嫌なら辞めろ」の中核ですね。

 しかし本当にそういう自由があるかというと怪しいもんです。職業というのは自分で選択できるものですが、しかし現状、職に就かない自由はかなり弱い。労働は神聖視されていますし、労働しないことはほとんど罪の一種と見做され、軽蔑を受けます。働かないと飢えます。生活保護受給者は白い目で見られますし、窓口で撃墜されています。つまり個別の職場を選ぶ自由はあっても、労働そのものから逃れる術がなく、実質強制労働だと言えるでしょう。これは外国に行っても変わりませんよね。生まれた時から金持ちとか、金をためてリタイアしました、とかはあり得ますけど、それはやっぱり機会に恵まれたからそうできただけであって、誰でも自由に労働を逃れられるわけじゃないですし。

 つまり「職業を選ぶ自由・辞める自由」はあるけど、「職業を持たない自由・辞めたままでいる自由」は規範的にかなり制限されています。ということは「辞める自由」だってほんとはそんなに強くないってことで、「嫌なら辞めろ」も成り立たないってことになります。ここのところが分析されず、単に「自由」という概念が独り歩きしてるからもやもやするんですね。

 しかし誰でも自由にこの場を逃れることができる、っていうのも確かなことではあります。それを可能にするのが自殺です。自殺はいつでもできるんだから、義務から逃れようと思ったら死ねばいいのです。自殺しないってことは望んでそうしてるんだから、義務に従う義務が生じますよ、とこういう理屈になってるんですよね。もちろんそんな極端なことを実際に市政の人々は言っていないです。しかし「働かざる者食うべからず」とは言われています。食うなってのは死ねって意味ですね。大っぴらには言われませんが、それは「そんなことを言ってはいけない」という別の規範があるから、それを言ったらむしろ言った人が軽蔑されることを知っているから言わないだけで、大抵の人は内心そう思ってるような空気があります。(もちろん大っぴらに言われる場合もあります。匿名なら特に。)空気というのは気のせいではないです。規範というのは言うまでもないから規範なのであって、敢えて言わずして実行されます。

 でも実際、自殺するのも難しくない?って問題があるのです。そもそも死にたくないし、失敗するリスクもあるし。じゃあやっぱり、自殺をするのも自由じゃないってことになります。また国や家族においての「嫌なら出ていけ」もそうです。実際問題、難しい場合が多いんじゃないでしょうか。しかし実際上の困難というのは、規範には大して影響しないものです。規範というのは概念連関ですから、概念的にそれが自然であれば、実際がどうかは大して気に留められないもんです。だからこそそれは人間において本能の代わりになる訳ですね。一種の条件反射です。

 昔社会学の授業で、過去の国家は「死を与える権力」だったけど、近代の国民国家は「生を与える権力」だ、って話を聞いたことがあります。言い得て妙ですね。死ぬなら勝手に死んでね、死なないならこう生きてね、というのが国民国家あるいは民主主義というものです。なんでそんなに「生き方」を欲しがるの?って言ったら、国民国家が文字通り国民=国家であって、つまり我々一人一人の努力が積み重なって運営されていくような、共同の場だと、これまた概念的に理解されてるからですね。「生き方」「ライフスタイル」なんてものは問わないけど、命令に逆らったら公開処刑、というのが昔の王権国家です。現代では公開処刑は行われませんが、与えられた定義に沿わない人間は、誰も気づかないところでひっそりと勝手に死ぬようにできています。

 結局集団の目的意識とそこに所属することから来る義務の話に戻ってしまったのですが、要はその集団っていうのが、国家レベルの大きさである、ってことなんですね。

 という訳で義務ってなんじゃって話は概念的に理解された「辞める」自由、延いては敢えて自殺しないで生きることを選んでいるという意志の概念が、国民国家的な「役に立て」との規範に服する責任の概念と結合しているから、という話でした。そりゃ息苦しくもなるわ。