陰雑記

日陰者の日記・陰弁慶の陰口

科学と哲学とか

 昨日今日と睡眠がなんか変だな。よく眠れるというか、体が睡眠不足を解消しようとしている感がすごい。土曜は明け方4時に寝て、その日曜14時に起きて。休みが終わっちゃうなあと思いつつ活動開始して、読書感想を書いたら15時半。それからゲームして17時くらいになって、で目がものすごく疲れて寝た。起きたら22時前で、やっぱ睡眠不足だったんだなあと。それから昼も食ってなかったからけっこう空腹だったみたいで、袋ラーメン二個食いしてシャワー浴びて、もう一度寝ようと思ったけどやっぱ眠れなかったので、何かしていた方がいいなと思って日記のこの部分を書いて、ちょっと本読んで、4時くらいに寝た。

 で今日は在宅で9時から仕事で18時半ごろ終わってわりとすぐ寝て、起きたら21時半くらい。で飯食ってぼーっとしてシャワー浴びて、この分だとまた寝れそうかな。5時間くらいは寝れるか。明日は出社。糞暑い道と満員電車と。こういう睡眠状態になってもテレワークなら無問題なんだがな。困るな。

 

 ボーナスが出た。1.5か月分くらい。しけてんな。でもないよりマシ。本と株を買おう。。

 

 科学と哲学についてちょっと書いておこう。

 私が哲学的に気にしているのは大雑把に「これは一体何なのか!?」というただそれだけです。それを個別の事象について言うなら、「ある物がそれであるということはどういうことか?」となります。

 目の前に酒があります。私はそれが酒だとわかっています。そこで「酒とは何か?」と問います。この問いは哲学的ではありません。科学的な問いです。酒とは何か知りたかったら、その成分やら分子構造やらを調べればいいです。同時に人体の神経とか脳とかも調べて、酒の成分が細胞にこうくっついてこう作用してどうのこうのと説明すれば、酒が何であるかはほぼ完全に理解できます。哲学はその後に来ます。酒が何であるかは完璧に理解できた、というところで改めて問うのです。「酒とは何かということは分かった。ではそういう存在としての酒が、そういう存在としての酒として存在しているというのはどういうことか?」と。

 「どういうことか?」も含めて、広い意味での「何であるか?」が完成します。それが無いと不完全です。そしてこれに答えるには二つ道があります。一つは「酒に対してどう振舞うのか?」という実存的、或いは倫理的問いで、もう一つは酒「である」とは何か?というように問いの焦点をずらすことです。

 「これは酒である」について、科学は「酒」を問います。哲学は「である」を問います。当然「酒とは科学的にこういう物である」と言われる時のその「である」についても問います。だから哲学は必然的にメタ科学であり、メタ自然学であり、要するに形而上学です。哲学は科学が始まる前か、科学が終わった後にしか無いです。科学の前にあって科学を成立させるものであり、科学の後にあって科学を理解するものです。だから両者の領域は重ならず、実のところ関係ないとすら言えます。少なくとも科学の内部から哲学を気にする必要はないです。

 しかし無関係とは言い切れないのは、哲学の側からは科学を気にせざるを得ないから、というのと、実存的・倫理的な方の態度からは科学批判みたいなものも出てこざるを得ないから、というのが理由となります。形而上学は単に科学があるというのがどういうことか、だけを純粋に問います。だから科学vs形而上学という構造にはならないです。私的にはこれで十分なんですが、さらに倫理的に、科学の「価値」を測り対処しようとすると、これは大変です。「それがそれであるとはどういうことか」、から、「悪であるということだ!」となりがちです。そして他者の活動にケチをつけることになります。敵対関係が生じます。。最もそういう価値の話、科学批判もまた「それをするとはどういうことか?」という形で形而上学に取り込まれます。それで一応哲学全体としては何とも対立しない、全て包摂していく立場だ、と言うことができるのです。