陰雑記

日陰者の日記・陰弁慶の陰口

何を信じればいいかわからないぜ

 眠いぜ。。まともなことを書ける気がしない。

 

ろーどー ろーどー ろどろど ろーどー あ・さ・か・ら・ろーどーー・・・

ろーどー ろーどー ろどろど ろーどー あ・さ・か・ら・ろーどーー・・・

僕らの労働 お兄ちゃんの労働 お姉ちゃんの労働

ろーどーー・・・ ろーどーー・・・

 

 情報が錯綜しすぎてどうにもならないのが現代の特徴ですね。特に政治と科学。どちらも真理そのものを生成する概念です。

 少なくとも小中高で習う程度の科学知識を持ってれば(というかもう、最低限ググる能力さえあれば)騙されないだろ、と思うような理論もあります。地球平面説とか。地球儀に水をぶっかけて平面を証明してるのを見た時は痺れましたね。しかしそういうあまりにも阿呆な例はともかく、もっと微妙な話になると段々わからなくなってきます。卵は一日に何個でも食っていいとか、傷口は乾かすのではなく湿らすべきだとか、AIが人間を超えるだのやっぱり超えないだの、あとは国の借金で財政破綻することはあり得ないとかなんとか、たしかに普通に生きてて知識が更新されていくことは多いのです。正しい根拠から正しい結論を導こうにも、最近の情報は根拠自体を揺るがしてきます。「その科学理論はもう古いんです!」と言われたらどうしようもない。勉強し直すしかないですね。科学が日進月歩なのは昔からだと思いますが、日々更新される情報が普通の人にもドバドバ届き得るのが現代の特殊性です。それで実のところ今通用している知識がいつまで有効なのかは、誰にもわからんのです。地球平面説とかはあまりにも阿呆だとは書きましたが、しかしそういう阿呆理論もこういう困惑の延長線上で生じてくるものであるということは言えると思うのです。コロナ陰謀論とかディープステートとかもそうですね。

 大衆の知見の恐ろしいところは、「科学的理論の細部なんてどうやってもわからないよ」という諦めがつきものであるところですね。まあ実のところ一般人はおろか科学者だって科学理論の究極的根底を知っている訳じゃないんじゃないかと思うのですがね。それで結局完全な理解はできないので、「実はよくわかっていないのだが」が全ての情報の頭に付きます。それで「まあこの人もこう言ってるし」みたいなノリで、他人への信頼に基づいて判断がなされます。最終的に好き嫌いです。困ったもんです。

 一応信頼ということが成り立つのは、実証という手続きが今なお有効だからなのは確かです。実験によって確かめられる事実があります。一方で、他人がやった実験というのは私にとっても「実」験なのでしょうか?というと結構怪しいと思います。「あんたが実験した訳じゃないでしょ?」と言われりゃ確かにそうです。私はただ他人の発表を信頼するだけですし。

 データに基づけば客観的に判断ができます。しかしデータを用意しているのは他人なので、結局それは人を信じるか信じないか、どういう人なら信じられるのか、という対人関係的な条件によることになります。

 まあとにかく頭から信じ込むことだけは避けないといけませんね。その都度最大限信頼できる情報から、飛躍のないように事実を整理・構築し、またそれをいつでも改訂できるように新しい情報に触れることを怠らないようにすること、くらいしかできなさそうです。真理に囚われて閉鎖的・排斥的にならないことですね。万人が信じるべきものを探しても仕方ないので、信じたいと思える真理を探します。ただしなぜそれを信じたいのか、何が都合よかったのか、は明確にしておかねばなりません。万人が信じるべき根拠ではなく、私が信じる都合を考える。無根拠に信じるのでなければ少なくともカルト化は避けられるでしょう。今はそれだけですね。