陰雑記

日陰者の日記・陰弁慶の陰口

宗教

 なんか宗教の話が続くな。そういう気分なんだ。

 大抵の宗教はどこかしらこの世の無とか、空とかについて語ります。しかしそういう否定的な何かでは、哲理として理解はできても肝心の救いがなかなか出てこない。もう少し積極的なものを求めます。それで神様仏様が出てくるんですね。

 現実的に苦痛を脱したかったら、

・現実的に、世間的にその苦痛に即した正しい努力をするか、

・或いは自分の欲求や執着の方を消滅させる(どんなことにも我慢できる・服従できるようにする)か、

・何らかの応報原理を置いて、今の状況は必ず良い出来事に繋がるはずだと期待するか、

・また何らかの積極的な聖なる力によって、「既に救われてるんだ」と思い込むか、

パターンはこのくらいでしょうか。一言で言えばそれぞれ努力・忍耐・希望・信頼でしょうかね。まあどれも大事なことではありますね。そしてどの宗教も、これらのそれぞれを一個突き抜けたものを求めてるんですね。それがあるからこそ努力でき、それがあるからこそ耐えられ、それがあるからこそ希望が持てて、何よりもそれこそをまず信頼できるような、そういう「それ」を求めてる訳です。ところでそういう「それ」がこの世のもの、お金とか家族とか地位とか知識だとかだとすれば、そういうのは失われ得るのが自明だから、頼りにならない訳です。だから「それ」は絶対的だったり超越的だったりしないといけない。しかし超越的なものって、超越してるはずなのになんでこっちに関わることができるんでしょう?という問題が生じます。相対の内にあって動揺していて、だからこそ苦しんでいるこの私が、どうやって絶対的に安定していて善いものと関われるのか?って話です。関われるなら超越してないし、絶対(対を絶する)でもないじゃん、と。

 それに超越って言ったって、それ自体やっぱりただの考えだったり、思い込みだったり、洗脳された結果だったり、神秘体験だったりに過ぎないのです。それこそ頼りにならないですよね。とにかく、自分がそういう良い方向に向かっていける事を何かのお陰だと思うと、その何かに依存する形になってしまうから危ういのです。さりとて自分の意志だけでそれをやるんだと考えても、その自分がやっぱり当てにならないです。そしてまた何のお陰でもなく、何の根拠もなく努力し、忍耐し、希望し、信頼できるならそれは結構なことではありますが、無根拠ってことは急変する可能性もあるってことで、やっぱり当てになりません。

 という訳で根拠があろうがなかろうが、どっちにせよ良く生きるのは難しいのです。なのでまあ、結局宗教は宗教自身を否定するところまでいかないと不誠実になります。信じりゃいいってもんじゃない。しかしその「こりゃ無理だわ!」っていう諦めがまた次の信仰に繋がっていくわけですね。そこで「どうしようもなさ」は認めつつ、考えるのをやめて現実生活に戻ってくると、良い感じに一周回って元通りになります。宗教は宗教的になりすぎてはならないのです。考えてるだけだと絶対に解決しないので、実際にやってみるしかない、となります。「どのように絶対(動揺のない境地)に至るか」と考える限り、絶対が絶対である以上、そこには辿り着けない、という答えにしかなりません。絶対に至るためには、過程を踏まずにいきなり絶対である他ありません。そこでやっぱり、無根拠さっていうのは上記の中では最も真相に近い概念であると言えます。一発勝負です。今安心できなければ永遠にできない、くらいの割り切りが必要になります。できるならできる!できないならできない!という。