陰雑記

日陰者の日記・陰弁慶の陰口

悟りを開こうとする人へ

 まず、悟りというのは自力で開けないものだということを知っておきましょう。なぜなら全て無我だからです。全ての本質は流動する現実の内に見出される陰のようなものに過ぎず、実質を持たず空であります。だから「私がー悟りをー開く」というこの関係自体が既に成り立ちません。無理です。その無理を乗り越えないと悟れません。つまり私の意志では無理なのに、しかし私自身が決断しないといけないということです。並大抵のことではないです。しかしとにかくその難しさを初めに知っておきましょう。

 

 その上で、悟りというのは永続するものではないということも知っておきましょう。一度悟ったら一生安泰などということはあり得ません。なぜなら全て無常だからです。悟りも無常です。調子の良し悪しというものがあって当然です。悟れる時には悟っておき、悟れない時には大人しく待つ、というようにしかできないものです。これも自力で起こせないことと本質的には同じです。

 

 更に悟りというのはより正確には開くもんではなく、ただ最初から悟っていたことに気付くことだ、ということも知っておきましょう。悟っていない状態から悟った状態になるんじゃなくて、常に既にここにあった現実あるがままというのが、そのまま悟りなのです。

 

 悟りとは何か?って言ったら、苦しみから解放された状態です。苦しみから解放されるにはどうしたらいいか?って、そんなの決まってます、現実的に努力しましょう。試験に落ちるのが不安なら勉強しましょう。好きなものがあるなら追い求めましょう。嫌いなものがあるなら、ちゃんと対応してそれから離れましょう。そういう現実的努力以外に、苦から脱する道は無いです。悟りを全ての解決策と見做してはいけません。悟りで一発逆転しようと考えてはなりません。苦しみは特殊な手段じゃなくて、「普通に」どうにかするしかないです。普通にしましょう。悟ったから苦しまなくなるんじゃなくて、苦しまなくなったら、そこに悟りがあります。苦しみに邪魔されて見えなくなっていた現実の真相が、それでこそ見えるようになるからです。つまり悟れるのは弱者ではなく、強者です。

 

 そうは言ってもそういう現実的な努力ができなくて困ってるんじゃん、というのはもちろんです。だから弱者にしか見えない真理というのももちろんあります。だからこそ、「自分で」頑張るんじゃなく、「普通に」頑張るのです。どうしても普通になれない人、頑張れない人は、それはそれで仕方ないです、頑張れるようになるのを待つしかありません。しかし頑張らなくていいということにはならないです。頑張らないと結局何も解決しないことは誰でも知っています。でも待つだけです。頑張ろうと思って頑張れるもんじゃないんだから、変に断固たる意志で「頑張ろう」と思ったら壊れます。それは不適切な努力というものです。何もせずに休んでいるのが現実的努力である場合もありますし、それすらできない場合にはひたすら呆然とするしかない、というのも事実です。しかしどうにか耐えて、待って、そして何かの拍子に現実的に動けるようになったら、その現実的な動きがもうそのまま悟りなのです。行くべきところを知ってる人は悩みませんからね。

 

 ・・・そしてくれぐれも、「今ここの身体感覚に集中すれば悟りを開けるぅ~」とかいう怪しいセールスに引っ掛からないようにしましょう。私がこれを書いたのも、そういう広告を見てしまったがためです。