陰雑記

日陰者の日記・陰弁慶の陰口

自殺の意義

 自殺って物事の解決になるんですかね?

 本人的には、なるんでしょうね。死んだ後どうなるのかはわかりませんが、無になるなら良し、何かに転生するとしてもまあ、自殺するような状況よりはマシでしょうから良し、その他よくわからんふわふわした意識状態になるとか、天国に行くとかでも良し、、

 恐ろしいのは地獄に落ちる場合か、永劫回帰する場合でしょうね。これがあるから死んでも安心かどうかはなかなか分からんもんです。なお、悪いことをしてないから地獄になんか行かないはず、というのはとんでもない早合点です。死んだ人間は全員漏れなく無条件で地獄に行くのだ、と仮定しても何もおかしなことはありませんからね。そういう訳でまあ、死が救いになるかは分からんのですが、自殺する本人的には「どこかへ行きたい」というよりかは「とにかくこの場を逃れたい」ってのが全てでしょうから、その願望だけは確実に叶うでしょう。(永劫回帰の場合のみ、実は逃れたことにならないので本当に最悪なんですが。)少なくとも賭けに出てみる価値はあると思いますね。

 死んだら「無」になるに決まっている、と思っている人は多そうです。私はかなり怪しいと思います。「無」が「有」ったらおかしい訳ですし。一応、意識っていうのは脳味噌が作っているんだから、脳味噌が機能停止したら意識も無い、そして世界とは意識に映ったもののことを言うんだから、意識が無ければ世界も無い、だから死んだら無になるに決まってるじゃないか!というのが理屈としてはありますね。しかし脳味噌と意識は対応関係であって、因果関係ではありません。脳味噌がまずあって、それが意識を生む、というようにはなってないのです。むしろとにかく世界があり、その中に意識なるものがあることが分かったその「後」に、その原因として、脳味噌なる概念が意味的に付与されたに過ぎません。要するに私の意識だけがあって脳味噌が無い状態は想像できるけど、脳味噌だけあって私の意識が無い状態は想像できないってことです。脳味噌を認識できるならそこに意識はありますからね。意識は脳味噌に先行してるのです。

 なお脳味噌が無ければ意識も無いはず、と思い込んでしまうのは、他人の脳味噌が止まる=身体活動が止まるという流れを見たことがあるからでしょう。気絶している他人を私は見ることができます。そして目覚めた他人は気絶している間のことを覚えていなかった=意識が無かった、と解釈される訳です。しかし他人の意識と私の意識とはそもそも在り方が違います。実際私が気絶する場合、「気絶している間に起きた出来事」とやらは全て、私が目覚めた後に構成されたお話に過ぎません。それどころか「私が気絶していた」という事実そのものが、私が目覚めた後に語られるのです。ここでもやはり、意識は出来事に先行しています。

 だから脳味噌の機能は意識の根拠にならないのです。という訳で無になるとは言い切れない、、んですが、まあ現在のこの私の性格やら知識やらなんやらがそのまま「次」に持ち越されるというのも同様に怪しい話ですね。それは流石に無いんじゃない?と直感的に思います。まあそれも根拠の無いことで、そういうことがあっても別におかしくはないんですけども。だから結局「今のこの私」は失われるんじゃないかな?とは思います。それを指して「(今の私が)無になる」って言うなら、まあそれはあり得るんじゃないでしょうか。

 

 というのが自殺者本人から見た自殺の価値ですが、周りの人間からすれば、まあ問題の解決になる部分とならない部分がありますね。もし自殺の原因が社会状況(金が無いから自殺、リストラされたから自殺、いじめられて自殺等々)にあるなら、黙って一人で死んでしまうのは周囲にとって害悪ですらあります。当人が死んで終わり、ではなく死に至るまでの環境を変えるようにしないと、同じ環境にいる他の人まで死にかねません。しかしだからと言って死にたがってる人に対し「死ぬな、生きて戦え」と言うのは甚だしく間違ってますね。もう戦えないから死のうとしてるんであって。だからその戦いは他人がやらなきゃいかんのです。しかしそういう助けてくれそうな人がいないから自殺するのだ、というのもまた事実であって、、で、結局人が死んでから問題が発覚して対策が練られるわけですね。そうなると自殺はやっぱり他人にとっても必要だったと。なんだかなあという感じです。