陰雑記

日陰者の日記・陰弁慶の陰口

労働教とか納税教についてぐだぐだ

 真夏です。エアコンの効いた部屋で聞くミンミンゼミの声は良いですね。

 

 20時から22時まで寝てました。睡眠負債を解消しておきたいのと、しかし寝ると時間がもったいないなあというのと。そのうち夏休みも取れそう(9月くらいになるかもだけど)なので、その時には一日中ひたすら寝る日を設けたい。

 

 ぽやぽやしてたら夜中になってしまった。読書があまり捗らなかったな。読むより書きたい周期に入ったかもしれない。しかし今日の分の日記は書いてない。というわけで、、

 

 日本人は本当に無宗教なのか?って話題は、飽きるほど何度も定期的に耳にするところです。そこで色々言われますが、やっぱ日本の宗教と言えば労働教だったり努力・自己責任教だったり、納税教だったりするわけですね。しかし労働だの納税だのはどういう意味で宗教だと言えるのか?と考えるに、宗教っていうのは、人間の精神に関わることであり、その根源に迫ることです。例えば愛、勇気、希望、信頼、忍耐、達観、情熱等々、何かしら精神的に良いとされるものがある訳ですが、宗教はそれら良いものを個々別々に関係ないものとして見るのではなく、それら個別の良いものを超えた根源、統一性へと近づいていく傾向があると考えられます。もちろんそれは宗教の一側面に過ぎないのかもしれないですけど、一応は。そして宗教的にはそれら精神の善を身につけるための修行があり、修行によってそれら良いものの根源に至ろうとするのです。

 根源というのは何かしらの善そのものであったり、悪そのものだったりします。つまり「それ」があるからこそそもそも愛ということが可能になる、勇気を持つことが可能となる、希望を持つことが可能となる、、云々。そういう「それ」が宗教、信仰の対象となる訳です。代表的な概念は神ですね。神が愛の根源であり、神がいらっしゃるからこそ苦境にも耐えられ、勇気を出し、この世を超えることができる、とか。あるいは念仏の場合もあるでしょうし、仏様の慈悲の場合もあるでしょうし、自然の働きと呼ばれる場合もあります。

 それで考えると「働かざる者食うべからず」とかは直球の信仰です。労働するからこそ生きる権利がある、労働するからこそ一緒に生きられる、労働が我々の間の絆である、労働があるからこそ信頼が生じる、って意味になりますからね。あと納税も。納税するからこそ助けてもらえる、納税しないやつは道路を歩く権利がない、納税することを誇りに思う、納税するからこそ一人前であり、勇気を持てる、納税しない奴は信頼できない、納税しないと希望が持てない、、と考えるのであれば、それは納税を信仰する宗教であるのは自明です。そして現代日本ではこれら表現が平気で成り立ってしまいそうなのが恐ろしいところなのですね。労働していないと後ろめたい、バチが当たる。将来世代を苦しめる(「親の因果が子に報う」日本的?思考)。納税することで徳を積む(将来世代に向け「財源」を積む)、支援を受けることは納税者に迷惑をかけること、故に自立=善=労働、義務を果たして初めて「権利を主張する権利」が与えられる云々。っていうと「労働しなかったり税金を払わなかったりすると後ろめたいってことにはきちんとした合理性がある! 神や仏には合理性が無い!」って話になってくるんですが、神の存在や恩寵についてだってつい何百年か前には極めて合理的に証明されていたのです。っていうのはまあ西洋の話ですけど、しかし合理性なんてのは所詮宗教的情熱を後から説明してるだけですから、何でも合理的にしようと思えば合理的になるのです。

 こうして見ると日本の宗教っていうのは昔ながらの「因果応報」にその核心があるんじゃないか?と思います。お前が悪い境遇にあるのはお前が努力しなかったからだ、っていうのよく聞きますよね。これ大昔に「前世からの因縁によりお前は今の身分に生まれたのだ」とか言ってたのと何が違うの?と感じます。労働だの納税だのをサボると将来自分たちが困ることになるんだぞ!っていう。因果応報って発想自体は、まあそれはそれで一理ありますし、現在日本が残念な感じになってるのも戦後民主主義において間違った選択ばっかしてきたからだ、ってのはそうかもしれないんですが、問題は因果応報の内部の理屈であって、これが大局としての政治的選択の失敗、ではなく個人が労働するかしないか、納税するかしないか、努力するかしないか、みたいなミクロに向かって行ってしまうところが特徴的なのかなあ、と勝手に思っています。要するに因果応報と個人主義??の結合が日本人っぽい精神性で、その結果として労働納税努力等が宗教化した、みたいな。なんでそんなにミクロ大好きなのか?っていうとよくわかんないんですけどね。一応昔は、過去の行状がどうだろうとも南無阿弥陀仏って唱えさえすればみんな救われるんだ!とか、悪人こそは自分の意志の無力を知っている、だからこそ純粋に仏様に頼って救いを得やすいのだ!とか懐の深い思想があったんですが、そういうの現代じゃ無理でしょう。なんか一切見返りを求めない救いっていう発想自体が消え去ったかのような印象です。それは経済が逼迫してるからなんでしょうけど、でも自己責任ばっかり言ってて困ってる人を救わないから、余計逼迫してる状況ですよねえ。でもやってる当人たちはそれで何処か良い方向へ向かっているつもりだし、財源論とか国の借金がーとか言っとけば「合理性」は確保できますし、それでいて「これは宗教ではない、現実だ!」みたいな感じでやるんだからなかなかのもんですよね。どうなっていくんだか。。そこに風穴を開けられるのが無条件のベーシックインカムとかその辺になってくるはずなんですが、現状の悪循環が維持されるままじゃどうしようもないでしょうね。むしろこういう循環を断ち切ることこそが宗教の本来の価値だとは思うんですけどね。