陰雑記

日陰者の日記・陰弁慶の陰口

宗教の話とベーシックインカムの話

 夏の夜、部屋にいるとじんわり蝉の声が聞こえてくる。外では明らかに鳴いてないのに。エアコンの音に混じってミンミン蝉とか、油蝉の声が。こういうの私だけじゃないと思います。なんか良いですよね、これ。

 

 宗教とは何か、っていうのは一概には言えないです。だから「宗教観」って言葉もあるんですね。

 例えば宗教と哲学を比べて、「永遠に考え探求し続けるのが哲学、途中で結論を悟って停止してしまうのが宗教だ!」みたいなことを言う人がいるのですが、でも実際には哲学と同じく、「宗教とは永遠に続く求道である!」って立場は間違いなくある訳です。というかそんなにはっきり哲学と宗教を切り分けられるんだったら、宗教哲学って単語は成立しなくなってしまいますよね。

 他に、例えばあるアイドルを熱烈に推していて、そのアイドルのためなら死んだっていい!と思ってる人は、宗教的なのでしょうか? うーん、ある面では宗教に通じていないこともないですね。宗教は「生命」とか「存在」とかの最も深いところに近づいていこうとするもので、だから当然そこに命を賭けられるような、そういう熱情が不可欠ではあります。しかしそれは宗教が情熱的だってだけの話で、情熱的なら何でも宗教だ、ということにはならないのです。飽くまで共通点があるってだけ、、だから情熱は宗教の必要条件ではあっても十分条件じゃない。。十分条件は何でしょうか? やっぱり「生命」や「存在」への接近でしょうか? でもそれだけなら哲学と同じになっちゃいますしね。

 祈りを捧げたりお経を唱えたりしてれば宗教でしょうか。しかしそういう外形はどうでもよい、心が大事なんだ、って立場もありますよね。じゃあ心の中で宗教を実践するとはどういうことなのか? 外形に表れない信仰ってどういうものなんでしょうか。それは何もしないってことなんでしょうか? 確かに、宗教というのは空っぽであればあるほど良い、って考えはあります。空念仏って言葉もありますし。お経だのなんだのは非日常を表現しますが、それと同じくらい宗教は日常を大事にする、というか「日常を大事にするからこそ非日常が際立ってくる」というのが宗教的論理として普遍的なところだと思います。だからアイドルのおっかけをやるために日頃は真面目に労働する、っていうのはどことなく宗教っぽくなる。。あ、私今あんまり考えずに書いているので深い意味はないです。

 しかし何となくわかってきました。「空っぽである」ということを実践しようとするところに宗教があるような気がします。空っぽなところは日常が埋めます。宗教は日常において何をしてくれるのかと言うと、何もしてくれません。それこそが宗教の存在意義であり、また宗教そのものです。多分。……よく、「満たされない思い」みたいな表現がありますけど、もちろん不足・不満・欠乏等々を満たしていくことは重要、というかそれこそが生の過程そのものなんですが、しかしいくら満たしても満たされきれるもんではない、そういう無限があるのだ、ということを自覚することからこそ宗教が出てくるのだ、とか、なんかそんな感じのことを今後はより深く理解というか、体得していきたいと思っています。終わり。

 

 以下全然関係ないベーシックインカムの話。

 ベーシックインカムは、金を、全員に、永遠に配ろうって政策ですね。全員に配るのは所得で線引きをするのが難しいからですね。年収○○万までの人には配るけど、それ+1円の人には配らない、とかいうことになっちゃいますし。というか誰がどんな理由で困ってるかなんか事前に分かるわけないのだから、全員に配るに越したことはないのです。収入・資産に拘わらなければ金持ちにも配ることになるけど、貧者に配るのが第一ですから、何も問題はないのです。格差も縮まりますしね。100円しか持ってない人と1万円持ってる人とでは100倍差がありますが、両者に1万円配ったら大体2倍くらいまで差が縮まります。

 恒久的に配るってのもほぼ同じ理由で、線引きが難しいからでしょう。一時的に配ろうとしたら、「ではいつからいつまで配るのか?」って設定問題が発生して、そのための計画を色々立てないといけなくなって、まあ色々難しくなってしまうからですね。よく「一時的給付には賛成だが、恒久的に配るのには賛成できない!世の中が乱れる!」って言ってる人がいるんですが、「じゃあいつまでなら配っていいのか?」というのをはっきりさせて欲しいところです。そんなん事前に決められないでしょ。だから恒久的に配るしかないのです。もしベーシックインカムで何か致命的なトラブルが起こるようなら、対策は簡単な話です。減額するか、止めりゃあいいのです。そうしたら、恒久と銘打ちつつ現実には一時給付で終わってしまった、という形になります。それはあり得る話ですね。しかし恒久的か一時的かは事後判断すればいいのです。とにかく配り始めること、それが第一であり、それが「恒久的」ということの意味なのです。多分ね。