陰雑記

日陰者の日記・陰弁慶の陰口

ツイッターでの議論の話

 ななチキレッドおいしいなあ!

 

 そういや少しはアクセス数増えるかな?って思って作ったツイッターアカウントをこのブログに紐付けてるんですが、今のところ全く使ってないんですよね。1回も呟いてないしリプも飛ばしてない。リツイートするだけ。だってツイッターってなんか、「すごい!勉強になります!」って感じの人か「何言ってんだ馬鹿か」って感じの人かしかいなくて、ちょうどよく話しかけやすい人ってのがいないんですよね。。「すごい」と思う人に話しかけたも、その人から見たら私の方が「何言ってんだ馬鹿か」って扱いになるだろうし。というか基本、わざわざ特定の人を捕まえて話したいことがないんですよね。取り敢えず書いたことをブログに置いとくのはいいんですけど。まあしかし「ななチキレッドおいしいなあ!」くらいはツイートでいいんじゃないの?と思わんでもない。。しかし書くことはできる限り日単位で置いておきたいという気持ちもある。……ということでツイッターはしばらく見てるだけになりそうです。いやでも、コミュニケーション取ってみた方が勉強になるのかなあ?と思いつつ。しかしすごいなあって人と馬鹿だなあって人が実際に議論していて、それが全く議論になってないところとかを実際に見てしまうと、「俺はこうなりたくないなあ」ってなってしまうんですね。馬鹿相手に議論が成り立たないのも嫌だし、「お前じゃ話にならんわ」って言われるのも嫌だし。昨日もそんな議論を見てしまいました。かたや経済学の教科書を読み込んだ上で自分なりの見解を持ってる人、かたや勉強はせずに自分の感覚から憶測しまくってるのにそれが憶測だと気付いてない人、という感じで。

 科学研究における態度はよく知りませんが、ごく普通の科学的態度っていうのは、普通に権威ある教科書を読んで理解し、「基本的にこれは事実です」って言われてる知識をひとまずそのまま覚えて概念を統一し、そこから知識を組み合わせて自分の見解を作る、っていうもんだと思います。ここで言う科学っていうのは自然科学だろうが社会科学だろうが同じです。とにかく広く事実とされていることは、事実であると認めてからじゃないと、そもそもまともに考えることができないです。本人が考えているつもりでもそれが全く現実に沿っていない、となりがちになります。多分それは思考じゃなくて、感情ですね。思考した結果が言葉になるのではなく、ただ感情がだらだら流れてるだけというか、夢を見ているような感じになります。夢は思考じゃないし、感情でもないですね。その中間、何らかのむずむずした感じがその都度思いついた概念をひっ捕まえてそのまま出力してるだけ、というような。夢の中には客観性もクソもなく、おかしなことが起きてもおかしいと思えません。基準がないからですね。

 という訳でまず現実的基準を作ってそこから出発しないといかんのです。いきなり懐疑から入ったり、自分の身の回りの素朴な経験から何らかの普遍的真理を言おうとするのは極めて危険なことです。ところが「自分の身の回りこそ現実!」「自分の目で見たことしか信じない!」みたいな人がいっぱいいます。哲学なら、或いはそれでもいいのです。実存的な事柄なので。科学ではダメです。科学的に考えるなら一旦自分の身辺事情は忘れるべきですね。普遍を扱ってくれないと困るし、自分自身を何かしらの、簡単には掴めない法則の一部として見てくれないと話が通じないのです。それが客観的ってことです。客観的ってのは誰からの目線でもないってことですからね。色んな情報が入り乱れて何が現実か分からんのが現代ですが、唯一可能なのは科学的であることです。「科学は現代の宗教に過ぎない」みたいなことを言えば言えますけど、実際問題現実というのはその時代で最も強く信仰された観念のことを言うのであって、それ以上でも以下でもないです。時代を超えて現実を作るのは哲学の役目ですが、しかし哲学もまた社会的活動としての側面を持つことは疑えず、だから哲学を出していい場面と、いけない場面があるのです。科学的に考えなきゃいけない時に哲学的に考えてしまうのは、哲学的に考えるべき時に科学を持ち出してしまうのと同じくらい愚かです。

 特に経済学ですね。金が絡むと人は感情的になりますからね。あと労働。労働は現在の制度下だと人生をほとんど丸ごと縛るものですから、色んな人の色んな感情を呼び込みます。感情がこもると道徳化します。道徳化すると客観性は失われます、、だから駄目なのです。感情をぶっ込んでも何も始まらないのです。まずその状況をある一派的法則の表れと見做した上で、じゃあ普通それはどういう時に起こる状態なのかについての一般論を勉強した上で、じゃあどうすべきなのか、というのをこれまた一般論として考え、その上で「詳細を」議論し、対応するのです。詳細以外は一致してないといかんのです。一致しないのは論外なのです。前提をがずれてたら話にならないですからね。