陰雑記

日記とか

心配事の9割は起こらないけど問題はそこじゃない

 寒くね? 寒い!

 暑いよりは寒い方が良いですね。お布団の温かさを感じる。疲れた。なんやかんやの流れで明日は有給を取れたので、お出かけして、眼鏡を買い換えちゃおっかなあと思ってます。明日が良い日になるといいなあ。

 予想したことは起こらない、みたいな信仰というか、体感が私にはあります。予想というか想像か。何か悪いことが起こりそうでも、予め想像しておいたら多分起こらないし、少なくとも想像した通りにそのまま起こることはない。また良いことが起こるかもしれない!と思っても、想像してしまったからには多分起きないんだろうなあ、っていう感じの。起こることって大抵予想外ですよね。そんなことない?

 一説によると心配事の9割は実際には起こらないんだとかなんとか。まあ実際そうなんでしょうね。でも私この考え、というか「科学的事実ですぅ~」って感じで宣伝されてますけど、とにかくこの「心配事の9割は起こらないから安心しよう!」って話は大嫌いなのです。それで安心しろって言われても困ります。嫌なことってのは予想してなかったところから、油断していた時に、突然生じるから恐ろしいのです。凶事なんて予想外のものがほとんどで、しかも不定期ながら確実に来るから不安なんでしょう? 予想できる程度の心配事なんぞどうでもよろしい。苦しみの本質というのは「予測した嫌な出来事が起こるか、起こらないか」にあるのではなく、「思ってもみなかった方向から嫌な出来事が降って湧いてくること」「予測は可能だが回避不可能なルーティン的苦しみ」にあるのです。「そのうち何か悪いことが起こるであろう」って予言なら、100%当たります。突然の苦しみと、真綿で首を締められるような日々の苦しみが織り重なって人生の苦しみを生むのです。そもそも予測できる苦しみは予測した時点で対策してしまうから、実現しないのは当然だし心理的衝撃も元々少ないですし。あと9割起こらないって言っても、実際に起こる1割が激重な場合はどうするんでしょう?

 全く安心できないですね。そういう不安には意味がないからやめましょうって言うなら、なぜそんな無意味なことをわざわざしているのか、について考えないといけません。それは覚悟をするためですよね。覚悟しているのとしていないのとでは、苦しみの質が異なるのです。ほとんど起こらないって言ったって実際起こるんだから覚悟しておかないといかんのです。「心配せずに今ここに集中しましょう」なんてのは詐欺です。常に漠然とした不安は持ったままで、それをどこから来るか分からない凶事への覚悟に繋げられてこそ、今ここに足を着けていられるのです。浮ついちゃいけません。「今ここに集中」論はよくありますけど、そういう覚悟をすっ飛ばすとただの痴呆ノーガード戦法になりますし、大変に臭いお説教になってしまいます。だから安易な「心配するな」論には乗れないんですね。。