陰雑記

日陰者の日記・陰弁慶の陰口

自分の死についてとか

 てってーてきなもくひょーかんりであっとーてきせーちょー

 かいしゃにこうけんしゃいんにかんげんみんなごきげんうれしいな

 おきゃくさまのえがおのためにぃー!(あへがお)

 

 目標管理とかいう糞が頭を過る度に憎しみが込み上げます。普通に考えて、いっぱしの大人が自分の目標を持つか持たないか、自分で決められないってやばいでしょう。なんなの? SMプレイなの? その管理への執着は。

 

 まあいいや。よくないけど、いいことにするのだ。そして別のことを考える。

 想像された死っていうのは痛くも苦しくもないし、格好悪くもないんですよね、というのを最近よく考えます。死というのは実際いつか来ることと理解されていて、それについて人は悲しんだり楽しみにしたり無視したりしてる訳ですが、まあやっぱりどうしても抽象的なんですよね。具体的な自分の死に方はどんなもんなんだろう?と思うと不思議な気持ちを味わえます。病死かな?事故死かな?病院か?自宅か?路上か? どんな気持ちがするでしょう。後悔はあるかな? ……正直いよいよ死ぬ!ってなったら痛みや苦しみでそれどころじゃなかったり、意識が朦朧としていたりで、生前を振り返ってる余裕なんかないんじゃないの?とも思うんですが。

 死に方っていうのは一個しかあり得ないですね。そしてどう死ぬにしてもやっぱり死は嫌なので、どう死んでも不満が残るような気がしますね。それで色んな死に方を考えると同時に、死んだ後のことも考えるんですね。死っていうことを考える時には、死ぬまでのことを考えるか、死んだ後のことを考えるかしかなくて、死そのものというのはただの境界線ですから、どういう経験でもないんでしょう。だからむしろ死は死にならない、ということで、死後の世界こそ真の到達点として、死の状況はただの一過程として位置付けることができるようになるんですね。

 なんですけど、まあ現代では明らかに死後の世界はオワコンでして、まあさっぱりわからんから無視するか、無になると決め込んでやっぱり無視するか、異世界転生物として消費するか、しかないですね。現在主流の、死んだら無になる派の方々からすると、どう死んでも結局同じところに行くわけだから、何も気にする必要はないんですけれども。そうなると生きるってこと自体が価値・意味不明になってきますね。無になるんだったら、なんで今が有るの?っていう。

 何が言いたいかというと、死後が無だろうが無じゃなかろうが、ある死に方には価値があり別の死に方にはない、あるいはある死に方は格好良いけど他のは格好悪い、ってのが今だに厳然と、事実としてあると思うんですね。しかし現代ではどうも無の概念が独り歩きしていて、生も投げ遣りになりがちだよね、と思うのです。まあ私も投げ遣りに生きてますが、しかしこういうことも思うからこそ死に方というのを気にしている訳です。