陰雑記

日陰者の日記・陰弁慶の陰口

死んでもきっとまた会えるよねって話

 うう……都合の良い友達が欲しい……いて欲しい時だけ側にいて、要らなくなったら消えて、ただ私を全肯定して甘やかして称えてくれるそういう友達が……そんなんあり得んっていうなら一生一人でいいです……うう……

 

 焼き鳥を食ってビールを飲みます。幸福。

 

 たまには信仰告白をしよう。

 死んでもまた会えると信じているところがあります。仮にですよ、死後に無になるとしたら、みんな同じ無へ辿り着くはずです。無が複数あるわけがありませんからね。みんな同じ所に行くのです。だから必ずまた会えます。「同じ場所で会う」というよりか、まあ「同じになる」んですけど。そしてまた仮にですよ、死後に無にならないんだとしたら、無限の時間の中で同じことが再び起こらないなんてことがありましょうか!? 絶対にまた会うのです。

 私は現にここに存在しています。私が一度でも存在しています。ということは、この世界は初めから、必然的に、「私というこの存在が可能であるようにできていた」はずです。それは未来永劫変わりません。世界そのものは時間を超えているからです。いつでも私が可能です。彼らも可能です。だから必ずまた会います。……一応言っておきますが私は物理的実在論を信じていませんよ。単に可能なことは可能であり、不可能なことは不可能であり、そして現に私が存在しあなたが存在している以上、私もあなたも可能であると、そういうことです。

 まあね、無限の時間があったって同じことがまた起こるとは限らないのですけど。でも無限ですからね。必ず「次」があります。そして可能性は決してなくなりません。実際に起きなくたって可能性は可能性のままですからね。現にあるものは無ではない、無ではない以上、無にはならない……。まあざっと1万年くらい地獄に落ちることもあるでしょう。再会してもお互いそれと分からないこともあるでしょう。忘れてしまっていることもあるでしょう。それはそれで何も問題は起きませんが。しかしとにかく、分かる時にははっきりそれと分かるでしょう。同一性なんてそんなもんです。物が壊れても観念が残ります。観念すら失われた時、その喪失は認識されません。だから却って観念は永続するのです。そして不意に再来します。

 全てを失うのなら、逆に全てを得たことになります。何も必要なくなるからです。中途半端に失うのなら、全て失ったわけではないので、取り返すことができます。無限の時間があるなら、何もかもが後回しでいい、遅すぎるということはない。全て帰ってくるのです。

 

 ※なんかちゅうちぇる死んだらしいですね。彼の死はひじょ~にどうでもいいですが、なんか上記がりゅうちぇるに捧げる詩みたいに見えてくるのがひじょ~に気に入らないですね。変なタイミングで死なないでほしい。