陰雑記

日陰者の日記・陰弁慶の陰口

語るのが恥ずかしいって話

 なんか昨日はくだらんこと書いた気がするな。人が言ってることなんかどうでもいいでしょうに。もっとあるでしょう、自分について書くべきことが。。

 まあいいや。ブログは飽くまで「この日はこんなこと考えてたんすね」というのを残しておくためのものだし。気楽にやろう。過去に書いたことなんか殆ど気に入らないのが当たり前。。

 

 他人に対する態度っていうのはそれ以前に、自分に対する態度でもあるのです。何かって言ったら他人に何か言う前に、それを言ってる自分を自己規定してるからですね。まず自分がどういう存在なのか決めてから、他人の前に出ていくのです。いや、より正確には前後関係・因果関係という訳ではなく必然的・相互的・同時的にそうなっていざるを得ないっていう感じの関係なんですけど。実存主義的文脈ではね。そういう訳で何かする人は自分が「それをするに相応しい人物だ」と自己規定していることになるのです。という訳で何を喋るにせよ書くにせよ、問わず語りにその人は自分がこういう人ですという自己紹介をしてるのであって、何を語ってもそれは自意識の裏返しになります。それが気恥ずかしいんですね。自負をばら撒くことになる訳ですからね。

 世の中他人を批判する振りをして、自分に酔ってるだけの奴が多過ぎです(これもw)。だったら最初から自分のことだけ書いてりゃいいのです。しかし自分に酔わずに素面で他者を批判、なんてことができるもんなんでしょうか? まして自分という存在を何も決めずに他人の前に出ていくなんてこと可能なのか。可能だとしても、そんなことして何になるのか? 自分無しで出て行ったら、ひたすらまごつくだけになるでしょう。だから「本当の自分」というのは難しいし、そんなもん無いとも言えるのです。そういう訳で、人間の進化の歴史なんか探っても割と無駄だったりします。結局そういう風に自分を決めてる自分がいるだけですし。

 本当の自分がいないなら、それについて考えても無駄なんじゃないか?というのは一理ありますが、そうも行かないのです。何故なら、恥ずかしいから。自分も恥ずかしいし他人も恥ずかしい。だから恥ずかしくない自分を探すのです。それが「本当の自分」というやつです。が、ねえ。むしろ酔いに酔って、恥ずかしさも酔ってる自覚も全部なくせばええんちゃうか?とも思うんですね。しかしそれもやっぱり今の自分が想像すると恥ずかしい訳でして。しかしここに書いている「恥」の概念すら徐々に批判的に、酔いの調子が強くなってきてますし、じゃあ、と言うと、まああんまり主張に固執せずに、考えたことはどんどん流して痕を残さず、っていうことにもなってきます。無常観ですね。だから宗教ってのは無我を説くのです。無常・無我の如実知見でもいいですし、神の国でも何でもいいんですけど。なお無我というのは「ありのままで良いのだ」とか「どうせ本当の自分なんか無いんだから何でもいいのだ」とかいう意味ではなく、本当の自分が「有る」と言おうが「無い」と言おうがどっちも嘘だ、ということであり、そのことに自覚的であれよ、という意味なのです(ここでは)。「放埒であれ」とか「無教養であれ」とか「あなたはそのままでいいのよ!」みたいな甘っちょろい意味じゃないです。だからこそ私は今反省フェーズに入ってる訳ですが。しかしその自覚もまた新しい自負に繋がっていく、、マウント取りから逃れられないのが人類の性でしょうか。そしてまたそう言うと、「恥」とか「マウント」の起源を、歴史だの文化だの遺伝だのから説明したくなってしまうんですが、それで解決しないのは上記の通り……そもそも起源なんかどうでもいいし。起源を気にすることには「所詮それは〜が齎した幻」っていうのをやりたいがため、って動機もあるのかもしれないですね。でも現にあるものは現にあるんだから、何故も糞も無く、その都度対応していくしかないんですよね。

 自分がやった、って事実そのものを消してしまえばいいんですかね? 「なんかこんなもんが偶然できてしまったんすけど、どすか」みたいな。それもなんかわざとらしくて嫌だな。

 イヤイヤ期の様相を呈してきました。この辺にしましょう。