陰雑記

日陰者の日記・陰弁慶の陰口

魂の修行がどうとか

 昨日あんまり寝れなかったので眠い。明け方少しうとうとしていたところに緊急地震速報をぶち込まれビビった。やたらでかいアラート音が鳴る設定になっていたようでいやはや。

 とても眠いので書くことがない。いやある。「生まれたくて生まれてきたんじゃねーよ」という言葉についてだ。これは「生まれようと思って生まれたんじゃない」「生まれるか生まれないかを選んでない」「何に生まれるか、この国この親この私に生まれることを選んでない」等々と同義なのだが、しかし本当に選ばなかったのか? 選んだけどそれを忘れたという可能性はないのか?とちょっと思ったのだった。しかし当然ながら「選ばなかった」ことを否定したいなら「選んだ」ということの根拠の方を挙げないといけないはずで、この世ならざる現象の根拠をこの世の中から挙げることなどできるはずもないから、結局は選ばなかった方に軍杯が上がるという訳です。

 あるいはこの言葉は「生まれるかどうかとか何に生まれるかとか、選べたなら今こうなってねーよ」という苦痛の表明であることが多いと思われます。選ぶというのは当然選んだ後の結果を予想することを含んでいる訳ですからね。結果が全くわからない状態で無作為に選ぶことはこの場合の「選ぶ」概念には含まれないのです。それは運任せですからね。となると「選んだ」派は何を言ってるのか。あ、一応、子供は親を選んで生まれてくるんだ派というのがいます、それに対してこそ選んでねーよ派も成立する訳です。で、だから選んだ派は、選ぶ時にきちんと未来のことがよく分かった上で選んだんだと言ってる訳ですが、じゃあなんでこんな人生を選んで生まれてきたのか?というと「魂の修行」みたいな概念が出てくる訳ですね。修行して魂のステージを上げるためだとか。でもじゃあなんで記憶を失ってるんだ?って話になりますよね。忘れちゃったら修行にならなくない? というか生まれた後何がどうなるか分かってて生まれてきたんなら、それはもうただの出来レースだから修行にならないし、敢えてどうなるかわからない状態に生まれてくることを選んだのだ、みたいな想定をしたなら、やっぱりそれはこの私(この状況)を選んで生まれてきたとは言えないよなあ。一応、単に「親を喜ばせるために」生まれてくるみたいな説もあるんですが、じゃあ虐待されて死んでもそれは本望ってことなのかとか、そもそも私を選んだそいつと今の私は別人じゃねーかとか色々考えられるんですね。で不合理なのをカバーしようとするとやっぱり「魂の修行」が。

 しかしまあ魂の修行も言わば自己責任ってことが言いたい訳だから、そこまで常識(白痴共の一般論)からかけ離れてるわけでもないんですよね。要はその都度その都度の決断の積み重ねによって、記憶を失っていようが人格が変容してようがなんだろうがとにかく同一性を保ち続ける一個の魂が、何かしら積み上げられるんだか磨き上げられるんだか分かりませんが、なんか質が変わっていくんだ、というようなことが言いたいみたいです。で選んでねーよ派としてはそういう決断主義というか自由意志実在論、自己責任論に対して因果関係の必然性とか偶然性とかを挙げて対抗するわけですね。で自己責任の肝というのは同一性にあるので、選んだ人とその結果を引き受ける人が同一だってのが重要な訳ですし、対抗するならそこまで踏み込んで欲しいんですよね。そもそも別人ですし、選ぶ時に選んだ後のことが全部わかってたわけじゃないですし、つまり私はこの状況を、生まれる前にも生まれた後にも選んでないですよ、というかそんな私はいませんよ、と。というのが結局仏教的な無我の概念、輪廻転生の主体である魂とか、常一主宰(常に同一性を保つ自由な主体として)の自我とかの否定と同義になっていくんだろうなあと思います。それなら仏教的な修行の概念は魂の修行とは何が違うのかって言ったら、まあそれは修行って響きが同じなだけで方向は真逆、積み上げたり磨き上げたりするんじゃなくてどんどん流して捨てて顧みないってことに重点があるわけですね。じゃあ誰が修行するの? って言ったらそれは私なんですが、私って誰なの?って言ったら魂ではなく、全現象の自己認識としか言いようがないようなもう眠い。