陰雑記

日陰者の日記・陰弁慶の陰口

うまくいかんなあ

 自分のやってることに意義が見出せないと辛くなってきますね。しかし意義って何でしょう、というのをまず考えないといけません。意義ってなんでしょう。何らかの快楽でしょうか? 楽しければ何でも良いという考えがありますね。もちろんそれは正しく、楽しいとか嬉しいとかいうことはそれ自体が価値です。だから楽しいことだけやってりゃいい訳ですし、楽しくないことでもどうにかして楽しむ必要が出てきます。

 自然な心情として、それ自体が楽しくてやってたのにいつの間にか変な拘りができて「こうでないと楽しめない」という状態になってしまいがちです。同じことの繰り返しだと飽きてきてしまうから、常に良いものを求めざるを得ないんですよね。しかし無限に向上できるということはないので、どっかで必ず不満が出るんですね。そういう時どうするか。もはや楽しいからやる、という感じではなく、なんらかの修行・道としてそれをやることになります。「熱くなりすぎだろ」と思う自分と「成就しないなら死んだ方がマシ」と思う自分が出てきて、何が何やら。しかしそれなりに楽しめるように要求を落とす、なんてことはあり得ないんですね。要求を高くしないと楽しめないっていうのが話の始まりだったので。そしてそのくらいの気概を以ってしてこんなものしかできないのか、という自己嫌悪が厭世観に繋がり、俺は何をやってるのか何のために生まれてきたのか、いやむしろこれで本当に生きていると言えるのか?と様々な文句が溢れ、

 ・・・というようなことが昔楽器をやっていた時に発生していましたし、今も別件で発生しています。楽器の方は結局やめちゃったんですけどね。なんかイップスみたいのになってたし。まあ、辞めたら辞めたですっきりと、今思えばどうしてあんなことに拘っていたのか分からない。むしろ初めからあんなもの無くてよかったのになあと思うばかりです。時間を無駄にしたかもしれない。あれに全てが賭かっていたかのように考えていた頃が懐かしい、、ということを鑑みるに、今上手くいかなくて悩んでいることもまた、離れてみてしまえば全くとるに足らないことではあるんでしょうね。誰しも色んなものを得たり失ったりして生きてるもんですが。失くしたら失くしたでそれなりに生きていけるもんです。結局何を得ても全て返却することになる訳ですし。生は借りものとはよく言ったもので、、こういう態度を達観と言います。しかしそんな後のことはどうでもよろしい、今我慢ならないので、頑張らねばならん。