陰雑記

日陰者の日記・陰弁慶の陰口

変われるとか変われないとか何とか

 出社してると感染対策とかどうでもよくなってくるな。そんな余裕がなくなってくるというか、疲れ切ってて気が緩んでくるのだ。なんか大丈夫な気がしてくる。これも心理的防御なんだろうが、避けられないならせめて、対象が大したものではないと信じたいじゃない?って感じだ。

 ・・・いや嘘嘘。今日もね、帰りの電車で折角座れたのに近くで咳き込んでる人がいたから車両を変えました。でも変えた先でも別の咳き込んでる人がいましたね。っていうか電車乗り換えてもやっぱり咳してる人がいるんですが。ええ。偶然かしら?

 プロジェクトリーダー的な人も自社の課長も今コロナ罹ってるし、ベテランの人の子供も数日前から咳と熱が出てて今日は本人も咳が。むしろここまでいきなり感染拡大を実感することになるとは思ってなかったんだけど、これも偶然かしら? ああただの風邪になったんでしたっけね。なら安心だぁ。。

 

 話変わりますが「他人は変えられないが自分は変えられる」とか「人は変われる」とか何とかいうの自己啓発とかでありがちですよね。そうかなあ。そりゃ、人が変わってしまうことってのは往々にしてあるけど。自由自在に変われる訳じゃないでしょう。というか難易度の話をしないといけないんじゃ? 「他人も変えられるし自分も変えられるけど、どちらも難しく、どちらかと言えば自分を変える方が簡単」っていうのが実際のとこじゃなかろうか。自由自在に変われるなら悩む人はいないし、変わるのに何らかの努力が要るなら、当然その努力を完遂できない、「変われない」人もいる訳でして、ケースバイケースとしか言いようがないでしょう。

 あとあれね、「神よ、変えることのできないものを静穏に受け入れる力を与えてください。変えるべきものを変える勇気を、そして、変えられないものと変えるべきものを区別する賢さを与えてください。」ってやつ。Wikipediaから引用。「ニーバーの祈り」って言うらしいですが、これ「変えられないものを~」云々って部分だけ注目されがちですけど、むしろそれを神様に祈ってるってとこが最重要なんじゃないの? わざわざ神様に祈らないといけないくらい難しいことをやろうとしてる訳ですよ。だからこれを引用していきなり「よしじゃあ今日から実践しよう」とはならないと思うんですよ。そして「~を与えてください。」って言ってんのに、大抵これの直後に「そうだ自分は変えられるんだ、勇気を出そう!」とか、「心の落ち着きがあれば不幸も受け入れられるのです」みたいな文脈に持っていこうとするのは何なんでしょう? 与えてくださいって言ってんだから今はまだ持ってないんでしょ? その落ち着きとか勇気とかを正に神に乞うてるのにさあ。自分ではどうしようもないから神に頼んでるのに、そんな気軽にできる訳ないじゃん。

 更に話変わりますが父が「最近の若いのは入った会社をどんどん辞めて少しでも高い給料のところに行く」って言ってて、それについてはまあそうでしょうねと。で、まあそれは遠回しに「転職するという手もあるぞ」と言いたかったようなんですが、私はそれもアホ臭えなあと思うのです。

 実際のところ、若者はキャリアアップ意欲が旺盛というより、労働したくないだけなんじゃないでしょうか? 若者がすぐ転職するのは、労働意欲自体が低いからでしょう。「やりたい仕事」なんぞ無いのです。どうせ何をやっても嫌なことをやることになるのだから、せめて高い報酬をもらわないと割に合わない、というのが若者の言い分だと思うのです。「プライベートを優先する傾向」とかよく言われますが、どちらかというとプライベートの価値が上がったのではなく労働の価値が下がったのでは?と思っています。それは良いことなんですけど、それで「よし、じゃあ転職だ!」って前のめりになるのも何だかなあ、と思うのですよ。そもそも、そこじゃなくない……?と思うのです。それは結局「環境を嘆いても仕方ない、自分で動こう!自分を変えよう!」ってやつなので。他にもっと変えるべきところがあるんじゃなかろうか。。全員で労働しないといけない制度設計とか。。