陰雑記

日陰者の日記・陰弁慶の陰口

労働する感情的根拠

 本の感想を昨日投稿しましたが、どうも上手くないなあ。やっぱババーッと書くだけだとなあ。と言いつつ今日もババーッと書くのだが。

 流れ的には、まず実質強制労働社会・承認されるための努力を強制する社会があります。そこでの苦痛があります。苦痛というのはそもそも「望んでいないことが生じる」苦痛です。

 だから苦痛を何とかするために、自分は「自発的に・自分の意志で」それをやってるんだ、と思い込みます。苦痛もまた自分の人生に不可欠な必然的要素であるというように受け入れ、肯定するよう訓練されます。(社会全体がそうですから、当然そう考えるように教育されます。)

 苦痛は快楽に変わります。その上で、なんやかんや「勝てて」しまうことによって「苦労が報われた」体験も与えられます。で、「優秀な俺が自分の努力で掴み取った成功(そこまで行かずとも、「ささやかな幸せ」なんかもありますね。)」とか「社会的にまともな人格」とかが形成されます。

 さらに「謙虚さ」も推奨されているので、「こんな俺でもできることができないというのは、甘えているに違いない」と考えます。(「え、何も努力なんかしなくても普通に生きていくくらい余裕なんですけどw適応できないの自業自得でしょw」みたいな態度もまた、一見そうは見えませんが謙虚さの一種です。言ってることは「こんな俺でも〜」と一緒ですからね。)謙虚さは差別感情に繋がります。というより、差別するための謙虚さを戦略としています。謙虚さの中には、「こんな俺の承認はいつか失われうる」という不安が反映されてはいます。しかしある程度の実績を上げてこその謙虚さですから、逆に驕りもまた混じっています。不安に思いつつも「自分は大丈夫だ」と思い込みたい感情は、謙虚さに繋がります。それは予防線としても機能します。「謙虚で善良な俺はまだ大丈夫だ」と。根っこにあるのは結局苦痛であり、不安です。承認される喜びは承認が失われる不安と紙一重なので、「自分が承認されるべき根拠」みたいなのを常に探し求めることになります。そのためには比較対象となる人が必要です。

 承認される我々・されない彼ら、有能・無能、役に立つ・立たない、金持ち・貧乏、努力・怠惰、自由・不自由、等々が規範として強化されます。「自分のようにしなかったから苦しんでいる人々」が必要になります。「ほら見ろ、努力しない奴らは困窮して苦しんでいる、自業自得だ!」をやりたいがために、努力しない人が苦しむように環境をわざわざ整備します。

 根底にあるのは不安とそこからの逃避願望から来る差別感情・悪意ですが、それは推奨されていないので、別の理論的根拠を必要とします。それで、「差別がしたいわけじゃない、ただ社会のリソースは限られていて、適切に分配しないといけないんだ」とか言い始めます。実際リソースがどのくらいあるのかは気にもしません。しかしそこまで理屈をこねる人はむしろ少なく、大多数は理屈ではなくただの連想で物を言っています。「働かざる者食うべからず」は理屈ではない。「ただ飯食いはよくない」「与えた分だけ与えられるのが当然」「何も与えられない者は社会の負担」云々。どれもこれもただの規範であって、概念であって、連想に過ぎません。そして豊かな社会で飢死。そして「自業自得」。

 実際100人分の要求を5人で満たすことができるとしたら、95人は働かなくていいわけです。でも現実にはそうはならないです。95人にも何らかの貢献が求められます。それは何故かと言ったら、貢献しないより貢献した方が偉いからです。なんで偉いのかと言ったら、「だって貢献してるんだから偉いでしょ」となります。これも理屈ではないのです。「何か仕事してるから偉い」のです。少なくとも仕事してない人よりは。

 なんかまた散らかってきたな。まあいいや。

 そして「見下す快感より普遍的な安心感があった方が良くない?」とか「そういう病的発想もベーシックインカムが普及したら変わるでしょ」とか「無駄な承認欲求とそれを要請する社会構造が変われば、普通の優しい人は働くでしょ」っていう流れにしたかったんですがね。

 なんか書きたいことの流れと、実際に書かれたものの流れが上手く一致してないんだよなあ。じゃあ整理してから書けよって話だけどめんどくさくてなあ。一回全部書いたあと組み替え直すのもめんどくさい。

 目立つのは概念的分別と固定、徹底した対比とその規範意識、ですね。生活保護にすら審査がある世の中ですから、「承認」なるものは社会の公理であると言ってもいい。誰かから認められないと生きていけないように設計されています。というかみんなそれを望んでいます。望んでるんだけど実際に言われるのは「仕方ないんだ」ということばかりです。仕方なくないです。みんなで仕方なくなるようにしているのです。そしてそれが結局「現実」の定義に他ならないのですね。だから確かに仕方ないっちゃ仕方ない。うーん。