陰雑記

日陰者の日記・陰弁慶の陰口

テロ

 昨日のことだったらしいのを今知ったんですが、なんかまた政治家が襲撃されたらしいですね。いいですねえ。山上の時も思いましたが、殺したい人というのがいて、殺すための手段をきちんと自分で用意して、実際に殺しにいける人というのはすごいもんがあるなあと。別にテロじゃなくて普通の殺人事件でもいいんですけどね。衝動的なのは駄目です。きちんと準備できるというのが大事なのです。殺したい人なら私にもいくらかはいますが、私なら日記に愚痴を書くことくらいしかできないしそれで満足しちゃうでしょう。私には決してできないことをやってのけたわけですから、私は尊敬しますね。(それとももしかして私の自己評価が低すぎるだけで、私だって然るべき状況に置かれれば同じようなことができてしまうんでしょうか? いまいちイメージが湧かないんですが。)

 政治に対する閉塞感があってそこに風穴を空けたいのなら、テロは有効な手段です。実際統一教会問題はわずかながら動きがありましたしね。もちろん殺される側からすればたまったもんじゃないでしょうから、やっぱりいけないことではあるんですけどね。しかし「物理的に安全だけど政治的に危険・不安・閉塞感に満ちていてうんざりしている社会」では、「物理的危険はあってもそのうち何かしらの変化が起こるかもしれない、この社会の『次』を見れるかもしれない、そういう期待のある社会」を作りたいという実践(すなわちテロ)が起こるのは必然でもありますね。多少の危険があっても「次は何が起こるんだろう」「また誰かが、何かを、やってくれるのではないか!?」という不安・わくわく感が刺激になってむしろ人々がイキイキし始めるというのことは普通に考えられますし、期待に応える人も当然出てくるでしょうし、だからこれからもテロは起こるんでしょうね。まあ今回の犯人がどういう経緯でそれに至ったのかはまだよくわかってませんけどね。社会的にどうこうじゃなくて個人的な恨みかもしれないですし。

 それにしたって実際、もし私の家に爆弾が投げ込まれたり、私の乗った電車で毒ガスが撒かれたりしたら私は確実に「なんで私のところに来るんだ、もっと他の奴のところに行けよ、もっといるだろ他に!」と思うでしょうし、政治家も多分そんな感じなんじゃないかな。まあ一人の巨悪がいるというのは稀なことで、実際は環境の都合でなるべくしてそうなってしまう場合が多いんでしょうから、誰でも「俺が悪い訳じゃないじゃん」というのは言い得るんですよね。だからこそテロは駄目なんですが。