陰雑記

日陰者の日記・陰弁慶の陰口

あんまり気にせんとこ

 最近は自分の至らなさ?能力の低さ?人生のパッとしなさ?を反省するフェーズに入っていたが、もしやこういう状態のことを煩悩熾盛っていうのでは?と思い当たったのでやめにした。定期的にこういう時期がある。しかしこういう反省とか自己批判を加える時期に状況が良くなった例はない。状況が良くなるのはいつも、何気なく何かを始めた時とか、或いは何か知らんうちに勝手に状況が変わったとか、そういう時だ。

 

 自分の意志で自分でどうにかしようとしていたが、それがどうかしていた。そういう場合に自分の意志だと思い込んでいるものは、意志ではなくただの願望だったり、より性格には妄念・妄想の類なのだ。

 

 例えば「お前は下らない人間のままで良いのか」という声、自分のものであれ他人のものであれ、そういう声には良いとも悪いとも答えてはならない。答えようとするのがそもそもの間違いだ。現にやっていることが全てであって、それ以上を答えようとするのは余計なことだ。つまり妄念・妄想だ。心配だの決意表明だのは、現実に存在している何とも対応していない。

 あれやらなきゃとか、こんなことしてる場合じゃとか、そういうのは克己の精神どころかただの煩悩であることが判明した。何かしら悪い方向へ向おうとする欲だけでなく、良い方向へ向おうとする欲についても、それに囚われるならただの煩悩だということは、まあ忘れられがちな基礎ではある。特に字面で分かっていても実感が湧かないと、つまりそれが煩悩だったという自覚がそもそもないと治し難い。十二支縁起の最初に無明が置かれる所以だ。

 

 あ、だから昔の人は坐禅を激推ししてたんだな。ただ座ってるだけって究極の無駄だから。「何かしなければ」って気持ちの方をむしろ制御する必要があったんだろう。

 

 何が起きようとそれは起こるべくして起こるのだし、起こるようにしか起こらないのだ。何故なら状況がまず端的に与えられているのであって、その状況を齎した意志だの業だの原因だの法則だのは、全て後付けの妄想だからだ。「なぜこうなったか」も「この先どうするか」も無意味だ。知ったことではないし、知らなくて当然だ。状況が勤勉になれば私も勤勉になるし、怠惰になれば怠惰になる。それだけのことであってそれ以上の作為は不要だ。では主体性はどこにあるかと言うに、この道理を真と認めるところにある。持ち堪えられない奴がまた妄想する。制御できない状況が恐ろしいからだ。

 

 ……というのが自分向けの理屈であるのだが、他人に向けては別の弁明が必要になる。ここがめんどくさいところなんだな。要するに最近の私は社会化され過ぎていた。