陰雑記

日記とか

ドラゴンズドグマのエンディング考察

 ドラゴンズドグマのエンディングって、主人公が自殺してポーンが主人公になってめでたしめでたしみたいな感じで終わるんですが、次回周回時には主人公はまだ界王として現役なんですよね。あれ、解放されたんじゃなかったの???と。となると、あの時解放されたのは飽くまでポーンだけであって、あのエンディングの後、主人公は界王の間に戻されたってことになります。あらら? つまりドラゴンズドグマは最終的に主人公がどうこうなるというよりは、ポーンを人間にするゲームだったことになり、空ろなる器である世界を満たすこと=ポーンを満たすことが目的であり、本質的にポーン育成ゲームだった、という結果になります。ゲーム冒頭のナレーションによると次回周回は前回周回の「幾百かの暦を数え」た後らしいので、ポーンは普通に人間として生きて死んで、そしてまた似たような世界ができて始めから、というような感じなんでしょう。

 あるいは主人公はあの時きちんと死ねていて、ポーンは主人公になって、次回界王の間に登場したのは分身か何かだった、と見ることもできますが、それだと界王の存在自体が、そうとうどうでもいい幻みたいなものであることになります。界王には中身がない。このように解釈した場合のドラゴンズドグマは、幻(「界王」とか「世界の理」とかの理屈全部)を打ち滅ぼして現実に至るゲームだった、ということになります。自分を殺して他者を満たすことが真の現実だ、という。それなら「覚者」って名称にも納得がいきます。覚者って日本語的には普通仏陀のことですからね。無明を打破する人のことです。

 実際、リディルで自殺するだけでいいなら、なんでサヴァンは自殺しなかったの?という疑問が湧きます。解放されたがってた割に自殺するのは怖かったの?という。そんなまさか。あんだけ意志が大事だって講釈垂れてたのに自分はそうしなかったっていうのはどう考えても不自然でしょう。だからサヴァンの言葉は信用できないし、サヴァンが言ってた理屈、世界の構造だの無限の繰り返しだのなんだのも信用できないのです。私も初回プレイ時にリディルで自殺するという発想が出なくて結局ググりましたし。っていうかリディルがある時点でご都合主義なんですよ。なんでそんなもんがあるんですか?って説明は一切なかったし。世界とか意志とかじゃなくてリディルを説明しろよ、と思います。誰が作ったんだよ。

 界王の間で過ごすことになった時メインポーンも一緒にいるんですが、あの時点でのメインポーンは「使命を全うでき満足です」とか「覚者様と一緒にいてこそのポーンです」とかなんとか言うだけで、あの状況に対しまったく何の感慨もなさそうでした。一応「同じことの繰り返しですね。。」とかは言ってくれるんですが、しかし「続けるのも止めるのも覚者様次第です」とか言って、飽くまで自分は知らんという姿勢。たしかに空ろだなあ、と不憫に思った覚者はついに自分の培ってきたすべて(ドラゴンから救った最愛の人も含めて)をポーンに贈って自害することになります。いや、主人公そこまで考えてたかどうかは不明ですが、少なくとも界王生活から主人公が解放されると同時に、メインポーンが主人公から解放される、っていうのはわかってたはずです。

 界王としての生活って、あれ結局カサディスと領都を透明状態でうろうろできるだけですし、何もすることがないんですよね。意志を発揮する余地がないというか、これで「世界を統べるのだ」とか言われても、という感じでした。それでまあ、自殺するしかないな、っていうのはなんか強制されてるような不自然さがありますが、とにかく主人公は自分の意志を発揮し、ポーンを解放することにしたんですね。世界という大きなものを切り捨てて、メインポーンというより小さなものに自分の意志を向けました。最も身近なものを満たすことが、真に世界を満たすだ、ということだったと。この辺を思うと、これは哲学的に大きい理屈を振り回してないで、現実的な小さい善行を積め、という素朴な話に思えてきますね。ナレーションによると本人にも「なぜか、勝利を抱き得たかのような誇らしげな気分を覚えた」って感覚があったみたいです。まあ善いことしたわけですからね。またポーンって自分の影みたいなもんらしいので、自分を殺して自分を生かした、と捉えることもできますね。新生は宗教に不可欠の発想です。でもまあ、普通にポーンは他者だ、って考える方が私は好きですね。ポーンの人間化=自己形成だと考えると、自己愛に閉じちゃうので。

 「生きようとする意志は世界を云々」っていう、明らかにショーペンハウアーだかニーチェだかを連想させようとしているわざとらしい台詞がありましたが、ショーペンハウアー的には自殺は生きようとする意志の全肯定です。自殺は個体性を破壊するけど、世界そのものはそのまま残す、「今の自分」を脱するだけで、世界そのものから脱することができないから駄目、みたいなのがショーペンハウアーの理屈です。意志を否定して世界そのものを消滅させることの方が立派だ、って主張ですね。しかし主人公は世界を消したかった訳じゃないので、これでよかったんでしょう。世界を消すんじゃなくて、より良い世界を贈るべきなのだ、っていうね。

 

 ポーンを人間にすると言えばセレナのおばあちゃんで、彼女はゲーム開始時点で死んでいて霊体化した状態で登場してくる人ですが、これ謎ですよね。覚者なのになんで死んでんの?っていう。いや霊体化しただけで死んではいないんですけど、竜識者とかもそうとう長く生きてるらしいのに生身で生きてるじゃないですか。んー、竜識者の腕が黒くなってるのが肉体が死にかけてることの表現だとしたら、おばあちゃんは竜識者よりもっと古い時代の人で、竜識者もあのままずっと過ごしていたらそのうち霊体になっていたはず、と考えることはできますかね。しかし領王は加齢すらしてなかったみたいですが。加齢しないのは王になったことの特権だったって感じですかね? それならおばあちゃんも竜識者も年寄りだったことには納得がいく、、しかしおばあちゃんはセレナを人間にした後結局消滅してましたよねえ。どういうことだ。覚者も死ねるのか?と考えると、結局「ポーンを人間にする」という目的を達成できたから、覚者としての真の役割を終えたのだ、ということになりますか。ますます界王が要らなくなりますねえ。界王とのあれこれがなくても目的が達成できるわけですからね。まあセレナはセレナのまま人間になったのであって、おばあちゃんになり替わった訳じゃないから不徹底だったと言えばそうなんですが。

 ついでに竜識者や領王やセレナのおばあちゃんについて考えると、竜識者は話を聞く限り、「生贄を捧げた上で、ドラゴンに挑んで勝てなかった」みたいです。領王は「生贄を捧げて、王になった」ようです。主人公は「生贄を捧げず、ドラゴンに挑んだ」人です。そして網羅性を考えると、おばあちゃんは「生贄を捧げず、ドラゴンにも挑まなかった」可能性があります。ということは、おばあちゃんは唯一、竜の話に乗らなかった、竜の教義をガン無視した、という特異性があることになります。ある意味最も強い意志を持っていた覚者です。だから彼女はドラゴンの言ってることとか覚者の宿命とかが嘘であることを見抜いていた、最初から現実的なポーンへの愛を実践していた、だからもう、そんな設定とは無関係にポーンを人間に昇華することが可能だったのだ、と考えることが可能です。竜識者はドラゴンに勝てなかった後もずっとうじうじ過去の記憶を引きずってて、近くにいるポーン(愚者)とはぜんぜん親しくしてなかったみたいですし、領王に至ってはポーンがいません。王になったときにポーンを失ったのか?或いは生贄として捧げた「レノア」という女性がポーンだったのか?は分かりませんが、結局領王も精神に異常をきたしてましたね。あれらは作中における悪い例なのだと思います。

 ……どうでもいいけどセレナちゃん、だいぶ厚かましいですよね。人んちに勝手に住みつくなよ。お前にはおばあちゃんが遺した家があるだろうが。森に帰れ。ドラゴン倒して最愛の人と一緒に家に帰ってきて、ベッドから起きたらしれっとこいつがいるのに毎回イラついて、海に投げ捨ててました。

 

 それはさておき、冒頭のナレーションなんですが、日本語字幕だと「それから、幾百かの暦を数え…」ってなってて「数百年後」みたいな扱いなんですが、英語だとAnd countless lifetimes come to pass…って書いてあるので、数百どころじゃない、数えきれないほどの暦(というか、個々の生涯)を数えています。いや、countlessって言ってるんだから「数え」というのがおかしいです。ほとんど「別の時空において」と同義になるんじゃないでしょうか? そもそもググってみたら、come to passは「(ある物事が)起こる・発生する・生じる」という意味で、「それから無数の一生が生じ…」というのが正確な訳のようです。だとするとこれは時間的な話ではない、と見ることも可能になります。一個の世界内の時間が経過した後、ではなく、時間そのものを超えていくつもの世界で生涯が生じ、それを見渡した後、という意味なんじゃないでしょうか? だとすると次回の周回は前回の周回とは違う世界の出来事だ、ということになります。ここから、先の「あれ、主人公解放されたんじゃなかったの?」問題を考えると、世界が違うんだから、前回周回時の主人公の姿をした界王は、前回主人公とは別物だ、ということになりますね。じゃあお前誰やねん、という話になるんですけど、そこはまあやっぱり幻だったんです、と考えるのが私的にはしっくりきますね。「なんでサヴァンは自殺しなかったのか」問題もこれなら解決しますし。だから竜の教義も、界王の存在も、全部嘘なんですね。界王が神だ、というのが嘘なのです。真の神は、意志を発揮して隣人を助ける時にそこにある「それ」のことを指すのだ、というのがこのゲームの結論のような気がします。つまり界王とかいうハリボテの神を倒して、現実的な行為・愛という真の神に到達することを表現したゲームだと。いや、ハリボテは言い過ぎかもしれません。界王は「意志」っていうキーワード、ヒントを出しまくってくれてますからね。それを加味すると界王とは、意志による現実的行為が実現するための橋渡し役としての、神の「概念」なのかもしれないです。概念だけあっても行為に繋がらないとしょうがない訳ですから。

 

 このゲーム、ストーリー的には「無限の繰り返しの否定」っていうのがあるんですが、プレイヤー的には何度でも周回可能だし、「無益な行いの、この上ない、常に新鮮な楽しみ」とかいって、その無意味さを楽しめ、みたいなことを言っています。メタ的に見れば「『繰り返しを断ち切る』ということ自体が無数に繰り返されている」というもの。世界を超えてるのはポーンじゃなくてプレイヤーだったという落ち。じゃあプレイヤーはいつ解放されるんでしょうか?っていったら、ゲームに飽きた時か、あるいはそれこそ「覚者様次第です」ということなんでしょう。でも飽きたとしてもまた戻ってきてね、きっと楽しいよ、というのが「常に新鮮な楽しみ」というメッセージになっていて、好きですね、この冒頭は。