陰雑記

日陰者の日記・陰弁慶の陰口

『老子』

 福永光司老子』(朝日出版社)を読んだので感想を書きます。この本には『老子』の原文、書き下し、全訳と詳細な解説が書いてあります。……岩波文庫の『老子』(蜂屋邦夫訳注)を先に読んだんですが、よくわかんなかったので。。解説豊富な方が良いですね。やっぱり。

 

 老子荘子は「老荘思想」という形で一括りにされますね。それで私はてっきり単純に老子が成立した後に、荘子がそれを参照して自著を書いたんだろうなあ、と思ってたんですが違うようです。老子と、荘子の外篇にはかなり共通する表現があって、中には荘子の方から老子に輸入された表現もあるだろうとのことで。ふーんという感じです。「『老子』の文章が『荘子』とくに外・雑篇『荘子』と重複もしくは類似する論述を多くもち、そのことから現在の『老子』テキストを『荘子』から逆に抜萃して編纂したものだとする極端な説さえある・・・」(福永「あとがき」)。

 『荘子』は内篇こそ優れているけれど、外篇以降はたぶん別人の作で内容的に劣化が見られるという話を聞いたことがあったので、じゃあ外篇以降は読まなくていっか、と思ってたのですが、老子と共通するっていうとやっぱり切り捨てていい部分ではないんですね。そのうち読もう。

 

 読んで印象に残ったところはいくらかありますが、特にパッと出るのは例えば、

 

第58章の福永訳

「禍は福のよりそうところ、福は禍のひそむところ、誰にもそのとどのつまりは分からない。世のなかに絶対的に正常(まとも)なものなどなく、正常だとされるものもさらに型はずれとなり、立派だとされるものもさらに妖怪(ばけもの)にかわる。人類がこの相対の真理を見失ったのも、今に始まったことではないのだ。」

 

第22章の福永解説

「己れを常に人前に推し出し、陽の当る場所に先を競って立とうとする強引な処世よりも、己れを常に背後に退け、他人の後からゆっくり歩いてゆく無理のない処世を好む。万事に無理をしないというのが彼の人生態度の根本であり、無理をしないために廻り道もし、汚辱にも身をけがし、屈辱にも甘んずるのである。」

 

第16章の蜂谷訳

「心をできる限り空虚にし、しっかりと静かな気持ちを守っていく。すると、万物は、あまねく生成変化しているが、わたしには、それらが道に復帰するさまが見てとれる。そもそも、万物はさかんに生成の活動をしながら、それぞれその根元に復帰するのだ。」

 

ですかね。他にも色々あったけど。

 

 哲学的な要素について。

 老子と言えば無為自然、「無為にして為さざる無し」ですね。しかし「自然」ってどういうことなんでしょうか。それは万物及び人間の在り方であり、人間の場合はその行為の在り方となります。あらゆる行為の原理を単純に言えば、「どこかへ向かおうとすること」であります。身体運動にしても思考にしてもそうで、必ずどこかへ向かおうとしています。それが意志というやつです。とは言っても「意志が強い」とか、弱いとか言う時の意志(理性的な意志)ではなくて、原初としての、理性的である以前の、とにかくどこかへ向かおうとすることそれ自体、快楽や苦痛と直接重なっているような、そういう動きそのもの、が根本的な意志であると私は考えます。思考されて規定された意志じゃなくて、思考を規定するところの意志です。だから当然、善悪・美醜・強弱以前の意志です。自然としての意志です。つまりショーペンハウアーが言っているような、自己っていうものの内奥に直接感じ取れるぎりぎりの本質です。それは何処へ向かっているのかが予め規定された動きではなく、むしろ「何処へ(どのような本質へむかって)」という規定がそこから生じてくるような無規定の動きです。故に混沌です。老子の「道」もそんな感じのものでしょう。多分。

 と書いて、ショーペンハウアーって老子のこと知ってたのか?と思い確認したら読んでました。「道教は世界の苦悩とそれからの救済の道についての教えである。原典からするこの教説の内容を、一八四二年にスタニスラス・ジュリアンが紹介したが、それは『老子道徳経』の翻訳にほかならない。これを読めば、道教の意味ならびに精神が、仏教の意味ならびに精神と一致することがわかる」(ショーペンハウアー全集8『自然における意志について』233頁)。まあ言うほど老子って苦悩からの救済を説いてるか?というと微妙なんですが。一体どういう翻訳だったのか。まあ道に従うことで全てうまくいきますよっていうのは全体的に言っているけれども。

 

 仏教に似ているところというとやっぱり相対性の強調、無分別に徹するところかなあ、と思います。

 特に第二章ですね。「世の中の人々は、みな美しいものは美しいと思っているが、じつはそれは醜いものにほかならない。みな善いものは善いと思っているが、じつはそれは善くないものにほかならない。そこで、有ると無いとは相手があってこそ生まれ、難しいと易しいとは相手があってこそ成りたち、長いと短いとは相手があってこそ形となり、高いと低いとは相手があってこそ現れ、・・・」(蜂屋訳)云々。

 美醜とか善悪は価値の話(要は「人それぞれだよね」ということ)だから分かりやすいところではありますし、長短とか難易も程度の問題なので相対的なのは分かりやすいと思うんですが、それと一緒に「有無」というのも相対的だと言われていて、これはやや分かりづらいかなと思いました。何かがここに有る、または無い、ってことほど明白なことはないように思われるからですね。

 例えば目の前にコップが有ります。有るんだから、もうそれは、有るとしか言いようがないでしょう、と思う訳です。有るって言ってんだから有るのであり、無いのでは無い。現にここに有るんだから、この有るものを無いとは言えないはずで、言っていたらおかしいはずです。だから有るということは相対的な価値評価とは違って、それ自体で事実として成りたつことである、と考える訳ですね。

 しかしよく考えると、そのコップが「有る」というのは原初的には、(後にコップと呼ばれる)「それ」が単に見えているということであって、その「見え」それ自体においては、つまりただ見えただけの時点においては、何物も「有る」とは規定されていないし、「無い」とも規定されていません。ここには知覚があるだけで、まだそれが有るということ、また何であるかということ、について、概念的に判断されてはいません。「有る」と「無い」は、飽くまで概念なのです。つまり現に私は知覚的に存在して生きていますが、この現にある現実的知覚の中に、「有る」という概念がそれ自体で含まれていることはない、ってことになります。現に有るものについては、わざわざ有るとは言わないし、無いとも言わないのです。それはそれ以前に、概念的ではない形で有ります。つまり有ると言うことができない形で有ります。

 「有る」と規定されて初めて「無いのでは無い」っていう概念、論理的分別が生じるんですね。分別が生じた後で言えば、コップは間違いなく有るんですけど、それ以前ということもまた有るのです。そして概念としての「有る」は、現実的・知覚的・非概念的「有る」を、その現実性に即して表現できていない、というのが趣旨なのです。

 何かと言えばその有るって言ってるものは、いつまでも有る訳では無いです。まず物理的に壊れますし。コップと呼んでるものの大きさも、暑けりゃ大きくなりますし、寒けりゃ小さくなります。総じて変化しています。常に運動していて形が不定です。にも拘らずその変化するものが、思考においては「同じ」ものとして「有る」と言われるのです。

 また私は四六時中コップを目の当たりにしているわけではないし、四六時中コップのことを考えているわけでも無いので、このコップは要するに現れたり消えたりする一時的なものです。すべてが一時的なのに、それでも「同じ」コップが「ずっと」ここに有ると思考される訳です。だからコップが「有る」という規定は一面の現実ではあっても、現実に即し切ってないんですね。だから仏教では諸行無常を説くし、老子仏陀そっくりだし、その諸行無常というのは二見(有無)を離れることで如実知見できますよ、という話になるのです。

 

 それで言えばこの世・世界そのものが「有る」と言えるか怪しいものです。世界って本当は「無い」んじゃないか?(っていうのは最近でも中島義道先生とかが言ってるようですね。)と思うことがあります。それはまず第一に、死ぬってことがあるからです。死ってことについて考えると、「いつか必ず死ぬなら、今既に死んでいるも同然ではないか?」と思えてくるんですね。私はすでに死んでるのでは?と。そしてそれを言うなら、いつか来る人生の終わりとしての死とは別に、この瞬間だって過ぎ去ったら二度とは戻ってこない訳ですから、私は常に瞬間ごとに死に続けているということも言える訳です。

 同じ一つのものが、同じものでありながら、ある時には生きていたりある時には死んでいたりする(ある時には有りある時には無い)訳ですが、同じものが反対の性質を持つって言ってるので、これは矛盾しています。だから生きているそれと死んでいるそれは同じじゃないのだ、刹那に滅するのだ、同一性は無い、無常なのだという話になります。その意味で瞬間の有には常に無が浸透しているし、まあつまり、有るって言ってるものもよく見れば無いも同然、ということになってきます。まああんまりこういう動性について老子は細かく語ったりはしないんですが。飽くまで直観的なものですからね。有るものは色んな形で有りますが、無は一つしかないです。その無が全存在に浸透し、また全存在は常に無に帰った上でそこから出る、とそういう訳なんですね。老子によればそういう無へ「帰っていく」在り方こそ恒常的なのだと。

 

 あんまり哲学に振れすぎると老子っぽくもなくなるような気がするのでこの辺にして、自分の処世みたいなことについて言うなら、老子は正に陰キャの哲学だなあと。世間的に(?)重要な能力とされがちな方向が否定され、逆が持ち上げられています。知と無知なら無知が良い、強いのと弱いのなら弱いのが良い、へり下るのが良い、引きこもるのが良い(というか活動範囲は狭いのが良い、、第47章「部屋から出ていかなくても世の中のことは分かり、窓から外を見なくても天の理法は見てとれる」(蜂屋訳))、受動的・受け身なのが良い、成り行きのままに流されるのが良い云々。「主体性を持って、決断して、自分から流れを作って巻き込んでいくのが大事」みたいなビジネスっぽい態度は老子の対極です。

 なのでまあ、メンタルケア的な意味で、老子を読むと「心が軽くなる」とか「これでいいんだと思える」とか、そんな感想は確かにあるな、と思います。まあもちろん、こういう態度も形而上学的な「道」についての知を踏まえてのことではあるので、あんまりこれを真に受けて「そうか、私は駄目なままでいいんだ!」となってしまうのもどうかなあとは思うんですが、何かしら励まされるところはありますね。哲学史を紐解けば、まあ大体どんな人間のどんな生き方でも、それなりに肯定してくれる哲学というのを誰かしらが主張してるもんですが、老子は正に日陰者に向いています。「老荘的人間像とは、現実社会からの疎外者、政治的・経済的な世界からの脱落者、優越者よりも劣敗者、支配者よりも被支配者にとっての慰めと憧れの対象であり、彼らの躓きと崩れを励まし支える救済の慈顔であったといえるであろう」(第15章福永解説)。。

 

 まあ、生来こういう性格の人っていますよね。はっきりしない、気が弱い、柔和で非積極的だが善良という訳でもない、活動するよりは静かにしてたい、状況が自分とあまり関係ないような気が常にしていて、上の空、やれと言われればだらだらやるが、基本的に興味はない。。まあ私のことですが。「ただわたしだけが、ひっそりとして何の気持ちも起こさず、まだ笑いもしない赤子のよう。くたびれて、帰る家さえない者のよう。・・・ただわたしだけが、貧しい人のよう。わたしは、心愚かなことよ、何も分からぬ。・・・ただわたしだけが薄ぼんやりだ。世間の人々は目端が利くことよ、ただわたしだけがぼーっとして大まかだ。・・・誰もがみな有能であるのに、それなのにただわたしだけが、鈍くて田舎くさい」(第20章蜂屋訳)。うう、、そういう人には救い、というか処世の手がかりになるかもしれないですね。「内向性の力」みたいな本も現代でうけたりしますしね。

 「弱い態度の方が優れているのだ!」と短絡するのはちょっと違うんでしょうけども。無為自然ってことは柔弱なものは柔弱に徹し、強硬なものは強硬に徹する、そういうことを言うはずですからね。実際「善良な者については、わたしも善良とし、善良でない者についてもまた、私は善良とする」(第49章蜂屋訳)、「老子の善は、悪と根底において一つであり、悪をも赦し包容してゆく善である。善と悪とを厳しく区別し、善でなければ悪、悪でなければ善というように明快に割り切ってゆく二者択一的な思考は、老子の好まないところである。その思考は、善もなく悪もないところから、善を見、また悪を見てゆこうとする。だから善が救われるとともに悪もまた救われうるのであり、善もそれを善として誇れば、もはや善でなくなるのである」(第27章福永解説)と。

 老子はいわゆる主体性というものを消して、それを超えた道に従っていく哲学ですが、そこからの現実的な展開となると、恐らく柔を前提とした剛、受動を前提とした主体、という形で進むことになるんでしょう。それこそ水のように全体に浸透した態度として、ですね。その辺は仏教と混ざって禅に至るまでの過程によって実現したものと考えます。実際禅者も老子を大いに参照しながら思索していたそうですし、浄土真宗への影響も大きいのだと。福永氏の本は他にもキリスト教ストア派哲学の比較も豊富で面白かったです。