陰雑記

日陰者の日記・陰弁慶の陰口

脳と心!

 舌に血豆ができた。まさに小豆みたいな色と大きさの。よくできるんですよね。ここ最近はなかったけど。。最後にできたのは2月末か。うーん。

 ちょっと歯が当たったり硬いものが擦れるだけで血豆ができるから困ってるんですよね。舌にも頬裏もにできる。歯茎の根元にできたこともある。ビタミンが足りないのかなあ。

 しばらく舌をぐにぐにさせてるとそのうち破けて血が出てくる。そして痛んで、軽く膿んでから治る。酷い場合は食事ができないくらい痛む。。やだなあ。

 

 まあそれはそれとして。

 前にも書いたかもですが、脳と心っていうのはどっちが先でもないし、どっちがどっちを生み出す、とかいうこともないです。「まず脳味噌があって、それが意識を生む」なんてのは文章表現上そういう順番になるだけです。実際、「私の意識を生む前の、私の脳味噌」って意味不明ですし。そんなもんどこにあんねん、という。逆に、「まず心があるからこそ、そこにある脳味噌を認識することもできる。だから心が先にあるんだ」みたいなのだって、単純な事実として、心がある時には脳味噌もあるじゃん?何言ってんねん、という感じです。

 脳味噌を弄ったら私の人格も変わる、だから脳味噌が本体なんだ、って意見があります。脳味噌を弄ったら人格が変わるって、そんなん当たり前でしょう。脳味噌の機能が心なんだから。逆に私が一念発起して自分の考え方なり習慣を変えた時だって、心がそう変わったんだから、脳味噌も変わっているに決まってます。それも当たり前です。どっちから見るかってだけの話です。脳が変化したら心も変化しますし、心が変化したら脳も変化します。それは対応関係・相互作用を示してるだけで、一方的な因果関係を示すものではないです。つまり心を脳味噌と紐付けたって、別に私の意志やら自由やら責任やらなんやらが消え去るわけじゃないです。意志や自由と、脳味噌や神経ってのは概念としてそもそもの用法が全然違うのです。つまり両者は、物事を別の側面から記述しているだけなのです。社会的行為(心っていうのは結局行為の集合のことです)の観点から見るときには心が問題になり、物理現象としての観点から見る場合には脳が問題になる、というだけのことです。

 心は自由だが物は法則に従うんだ、そこが違いなんだ、だから心を物に結びつけたら自由も無くなってしまう!みたいな考え方がありますが、これも何言ってんのという感じです。物だって心だってもともと自由でも不自由でもないです。時と場合によって自由だとか不自由だとか言われるだけのことです。それで言えば多くの場合、心が不自由なのは物と結びつけなくたってそれ自体で自明です。物の法則性だって、まず法則性があって物がそれに従う、っていう風に理解されがちですが、実際には物がまず動いてから、その動いた結果を法則として整理したってだけであって、「物が法則に縛られてる」訳じゃないんですよ。変な言い方ですが、「物がその気になれば」法則なんか無くなります。法則は後追いです。現物無しで法則だけが存在している状態」っていうのがあり得ない、って言えば分かりやすいですかね? そういう訳で心も不自由ですし、物も自由だ、と言えるのです。科学というのは既に生起した事実を分析し整理するものなので、自由だの不自由だのは科学が扱う領域ではないです。

 それである時突然法則が崩壊したって、それで科学が否定される訳でもないです。今度はその変化を新しい観察対象にして出発すればいいだけですし。ついでに言えば科学は決まりきった世界の真理を説くカルトじゃなくて、一個一個の事象を時に普遍化しつつ時に個別に観察することで、世界の真実の輪郭を少しずつでも明確にしていく姿勢のことをそう言うのです。安易に科学を非難するのはむしろ科学の精神性に対する侮辱だと考えます。……いやね、けっこういるんですよ、科学的決定論とか「脳=心」論とかを認めてしまったら人間の大事な何かが毀損されてしまう!って考えて妙に科学を敵視していたりする人も。確かに決定論は越権ですし、心を脳に「還元」することもかなり乱暴なんですが、しかしそれはそういう主張をしてる人の問題であって、「科学」そのものの問題ではないでしょう。まあとにかく、心と脳をくっつけたところで人間が人間じゃなくなるわけでもないですし。脳も人間の一部だってだけで。

 いやそんなことはいいんですけど、心も脳も自由に選択を行い、責任を負います。「私が殺しました」と言うところで、「脳が殺しました、私は殺してないです」とか言っても無罪になるわけがないでしょう。脳が私なのです。