陰雑記

日陰者の日記・陰弁慶の陰口

社会保障が必要な理由とか

 人々の生活は保障されないといけない、と思うんですが、その根拠は何でしょう。

 まずまず、保障されないということは、誰がどれだけ飢えても凍えても死んでも構わんということです。当然私が飢える・凍える・死ぬのも是とされているということであって、でも私はそうはなりたくないのです。だから保障してほしい、と考えるわけですね。しかし「誰が飢えようが凍えようが死のうがそれが自然の摂理であって、介入すべきではない。そのままにすべきだ」とか、それに類したことを考えることも、まあ考えようと思えばできるわけです。価値の問題ですからね。しかし私はそういう価値観を持ちたくないです。何故持ちたくないのか(共感できないのか)というと、まあ結局のところ、そういう価値観に対する身体的な親和性がないから(つまり「ピンとこない」から)というところに行きつきます。(「そういう教育を受けていないから」という答えもあり得ますが、それは時間的経緯の話で合って、今私がなぜある価値観に賛同しないのかの理由としては、この文脈においては直接的ではないです。)身体が反論します。飢えて凍えて死ぬのは辛いだろうなあということを知っています。絶望するだろうなあと思います。もちろん反対の価値観からすれば、そういう感覚も何かの間違い、筋違い、誤謬として解釈可能です。空腹「感」だの絶望「感」だのに惑わされず、もっと大きな物事の流れを見てそれに従え、みたいなね。「自然」にせよ「社会全体の利益」とか「特定の偉い人の名誉のため」とかなんだとか、個人の感覚より優先されるべきものというのを挙げれば挙げられます。

 あとは死という概念ですね。一応現代の主流派?としては「死ぬと無になる」というのがあります。しかし「無になる」んだったら、生前感じていた苦痛やらなんやらは死んだらもう感じないんだから、無かったことになるんじゃないでしょうか? ということは別に誰が飢えようが凍えようが死のうが、結局それは無かったことになるので、何も問題は無いことになります。実際自殺者は死ねば解決すると思うから死ぬわけですし。そうだといって死後の世界みたいなのを想定するとなると因果応報が必要になります。「生前の状況とは全く関係なく、全く新しい状況が始まる」という設定にしてしまうと、これは無になるのと同じになってしまいますから。そういうわけで天国とか地獄とか因果応報に基づく転生というのが発明されるんですが、これはこれで、多分苦しんだ人は来世で報われるから大丈夫、という発想を呼び込み、現世で飢えて凍えて死ぬことはむしろ推奨されるようになってしまいます。死という概念が絡むとこの世は駄目になります。生が相対化されてしまうんですね。(苦しんで死んだ人は来世でもっと苦しむ、という設定にすれば、この世では全力で戦うようになるかもしれませんが、それはあまりにも恐ろしいのでなかなか採用されませんね。)

 で、以上すべてはただのオカルトであって、私は賛同できないです。個人の生を超えたところに価値基準を置くのは良くないです。と私の身体が言っています。しかし私の身体が言っているということは、私だけ保障されればいい、他の人は別にいいや、ということになるんでしょうか? ちょっと漠然としてますが私だけ絶対に「安全」だとしたら、私は他の人の生活の心配までするでしょうか。あんまりしなくなるような気がします。それどころか自分の安全が保証されているとしたら、困窮者の感情や振る舞いを見て楽しむようにすらなるかもしれないです。(実際自分が安全だと勘違いした人はよくこれをやっているようです。)なのでまず私はエゴイズムに基づいて、自分の身の安全だけを求めているようです。これは当然といえば当然のことではありますね。

 とはいえ実際そこまで邪悪にはならないです。何故かって先に仮定した絶対の「安全」というのがあり得ないからですね。私は所詮人間ですし。肉体は物質ですし、所有も物質ですし、失われ得ます。人間は生まれも育ちも不平等ですが、同じ物質的世界に生きている人間であるという点では全く平等です。誰でも何でも失われ得ます。誰も安全ではないし、ということは、誰でも誰かを殺し得るし、奪い得ます。しかし何故そういう、殺したり奪ったりすることが必要な世界なのかと言えば、それも結局物質的世界であることの弊害で、所有に限りがある(というより限りがあるというのが所有の必要条件)こと、所有は足りなくなるということ、足りないものはどこかから調達するしかないということ、ところが調達するための手段が限られていること、調達したいものはほとんど別の誰かの所有であること、等々ですね。で、殺されたり奪われたりするのが悲しいのは、これは平等な可能性として悲しいのであって、だから逆に、そういう悲しみが発生しないように、万人の所有が一定以上になるように、という配慮が出てきて当然なわけです。

 ということで、持っていない人は飢えて凍えて死ぬことがないように、また持っている人は奪われ殺されることがないように、というのが保障の必要な根拠、なんですが、いくら絶対の安全があり得ないとはいえ、現実的に持っている人が奪われ殺されることが極めて起こりにくいような状況においては? 理由の半分が無くなることになるんでしょうか。そして持っている人というのは権力も持ってますから、全体としては「保障なんぞいらん」派が台頭して当然、ですよねえ。なんかそんな感じですよね世の中。持っていない人たちが「奪おう」と考えるのを防止するための自己責任概念とかね。「自分の人生に責任を持つ」ってのは自由で力強い人格による格好いい態度であるかのように思われてますが要するに「失敗したなら黙って死ね」ということですからね。しかし失敗したからって死なないといけないんでしょうか。

 無能は社会の負担だから生きていてはいけない、みたいな発想がありますね。「社会全体の利益のために」っていうオカルトですが。個人あっての社会でしょうよ。で、この文脈では無能ってのはつまり分配に値しない者を意味する訳です。「値しない」ってのはどういうことかというと、「社会成員は社会からの分配を受ける代わりに何かを差し出さなければならない」という原則があるらしく、それに従っていないから、みたいな意味になるようです。この原則はどこから来るのかというと、「社会のリソースは有限であり、人々の活動(労働を代表とする)によって維持または増減する」という発想のようです。リソース増加に参与していない人にまで分配ばかりしていたら、全体が困窮してしまうという訳ですね。ここに疑問符が付くわけです。そんなケチケチしないといけないほど社会って困窮してるの?と。(してるらしいですね。「国の借金」説によれば。。)その割に食べ物とか捨てまくってるみたいですけど。あとリソースって何?とか。労働は確かに社会に必要なものを供給するけど、それは必要なら増やすし不要なら減らすって調整をするもんで、常に最大化するため全員で働けってのはおかしな話です。それに全員で無理やり労働したとして労働力は最大化するのか?という疑問。余計な人員が増えることの悪影響はないのか? あと社会に参与するにも先立つものがないと始まらなくない?というのもありますね。「衣食足りて礼節を知る」という言葉もありますし。

 まあ何を言ってもですね、全員が保障されないといけないんですが、保障されるべき人ですら現代の「現実」を内面化しているので当面無理でしょうね。あと飢えて凍えて死ななけりゃなんでもいいのか?っていうところも考えられていない。基本的に「自由にさせる」という発想はこの社会には無いのです。そりゃ上っ面においての職業選択の自由とか言論の自由とかは一応認められている風にはなってますけどね。