陰雑記

日陰者の日記・陰弁慶の陰口

山森亮『ベーシック・インカム入門』

 山森亮ベーシック・インカム入門』を読んだので感想を書きます。

 ()内はページ数、「」内はたいてい私の要約。

 著者も書いてますがこの本はベーシック・インカムに対する、たぶん日本で最も強い反対根拠となる「働かざる、者食うべからず」という格言のまわりをぶつぶつ言いながらうろうろするような体裁の」(277)本です。

 ベーシック・インカムの重要な存在意義としてはセーフティーネットとしての機能があります。それで、既存の生活保護制度は捕捉率(受給できるはずの人に対する、実際に受給している人の率)が20%しかないという指摘がされます(31-34)。総人口の増加に伴い、受給に値する人=貧しい人々は増えているのだけれど、肝心の捕捉率が増えていない。社会保障の理念的には当然、対象者は全部捕捉されてないとおかしいわけです。救われるべき人々が救われていない。これはケースワーカーによる選別(「働いていない人」の中から「本当に働けない人」を見分ける作業)が行われているからだそうです。現場的には予算が限られているから選別も厳しくせざるを得ないという事情があるみたいですが、じゃあ捕捉率20%なんだから、予算を単純に5倍にしなきゃ駄目じゃん(36)と。しかし現実には生活保護は削る方にばかり話が進んで、増やそうという議論がされません。

 それはもちろん増やそうとすると金がかかるからなのですが、社会保障より財政を優先する姿勢に著者は批判的です。最近はやりのMMT(現代貨幣理論。政府は税金を集めて財源にしている訳ではない、自国で通貨を発行している国が財政破綻することはない、だから本来使用できる予算は今思われているより実はかなり多いのだ、みたいな理論)は参照されておらず、飽くまで税金が財源として考えられていますが、重要なのは「財源を問う議論は単なる“恫喝”」(221)と書かれていることです。「で、財源は?」というのは財源に関する議論がしたいのではなく、相手を黙らせたいときに使用される常套句だ(221-222)と。たしかに、何であれ必要な金なら政府は用意しなければならないし、それができないならその政府は機能していないと言わざるを得ません。

 「生活を保証したら誰も働かなくなる!」みたいな声については、「必要なことだからと言って強制されることがあってはならない」(57-58)と至極真っ当な意見。そして

「むしろ生活が保障されたうえで為される仕事の方が質が高くなることも考えられます」(165-167)とか

「労働が嫌なのは現今が実質強制労働社会だからであって、強制がなくなれば普通の人は何かしら働きたくなるもんでしょ」(251-252)、

「そもそも機械技術の向上で、必要な労働人口は減ってきてますし、これからも減っていきますよ」(205-206)とか、

「現今のシステムは飢餓への恐怖から人々を労働に駆り立てるものですが、これはよくないですよね。もっと自由な労働観・働き方があっていいはずですよね」(147-148)とか、

「現代の社会の生産性は過去の人間たちが積み上げてきた共通文化遺産によるものであって、その成果物は社会成員のだれでもがが享受できるものでなければならないはず=ベーシック・インカムは文化の配当」(170-173)とか

「昔は工場内で仕事が完結してたけど、今は社会全体が工場みたいなもんじゃん?何をどうして生きようが何かしらの生産に繋がってる訳だし。だから生きてるだけで労働してると言える訳で、報酬も発生して当然よね(成果物が非物質的なので、労働が場所にとらわれていない)」(115-118)とか

の議論の紹介があって、うんなるほど、と思いました。説得された。

 これまで労働と見做されてこなかったことも労働に含めること、そしてその労働を特定の属性の人々に押し付けることなく自由に行えるようにすること、結果として労働自体からの解放=生活の保障が必要であるということなど。これはそもそもフェミニズム運動から主張されたことであるとか、知らんかったわ。

 で、感想ですが、これまでもベーシック・インカムについての話はツイッターとかブログとかで目にしてはいたんですが、今回初めて書籍を読んで、なんというかまともな学者がちゃんとまともな議論をしているんだなあ、と思えたのでよかったですね。まあそのまともなことが実現されないのはなんでなんやろ、とも思いましたが。多分それは、世間一般に考えが全然伝わってないからで、伝わらない理由は、労働という概念を揺るがそうとすること自体が何かしら禁忌だからなんでしょう。

 大抵の人にとって、労働を揺るがすことは自分の人生そのものを揺るがすことであると言っても過言ではないと思われます。労働と人格を切り離せていないようなところがありますからね。というか労働によってこそ人格は形成されるのだ、労働しないものは人格を持たない人非人である、というような意見はまだまだ多数派であるように思われます。実際「働いていない人」を目の前にしたらまずその人格を疑ってかかる、警戒する、というのはよくある話です。要は労働が根幹的な承認として機能してしまっているということですね。これが一番まずいと思うのですよ。

 「労働は人を自由にする」というナチスの標語がなぜこんなに人々に好まれるのか?と著者は訝っています(57)が、むしろこの標語こそ労働のリアルだから、ということになるでしょう。世の中には「使える奴」と「使えない奴」がいて、前者は生きるに値し後者は生きるに値しない。「使える奴」と「使えない奴」の選別は学校でも職場でも至るところで為されています。機会は平等で、努力次第で自己責任です。それが基本的な承認欲求の源です。まず何らかの承認を与えられないと話が始まらない、そのための努力をしろ、というのが常識なのですね。承認されれば自由な生や選択肢が与えられる。承認されないと何らかの強制を受けることになる。

 「実際どうなのか」とか「どうあるべきか」という考察をする人はそもそも少なく、「それが常識」というだけで完全に納得してしまう人が多いように思います。(これもただの憶測ですけどね。)「実際にどうか」っていうのは常識を一旦脇に置いて、データなり実体験なりを用いて理論を構築しなおすことです。「常識」は単に現在通用している一連の概念連関の話で、大抵の人はそのレベルで生きている。「実際にどうか」という問いは、一旦常識を常識として仮定した上でそのアンチテーゼとしてしか出てこない懐疑であって、どうしても一段「深い」ものにならざるを得ません。しかし世間的には一段深くなるだけで負担が大きい。この本はそのもうちょい深いところ、「労働とは何か」とか「社会とは何か」という問題に取り組むためのものだと著者も書いています(12-13)。なんとなく、それこそ「本当にこの本が必要な人たち」には届かないような気がしますね。

 で、労働によって承認を得る発想は当然「俺たちが社会を回しているんだ、俺たちが社会には必要なんだ、俺たちは偉いんだ!」という考えに繋がってきます。当然「偉い俺たち」は「偉くないあいつら」との対比によってのみ意味を持ちますから、「全員にお金を配ろう」とか言い出したら大混乱が起きます。お金が貰えるというのは最も分かりやすい承認の形ですから、それを全員に与えるというのは概念的に「矛盾」であると感じてもおかしくはないのです。「認められた者だけが貰えるはずのお金を全員に配る」という理解になりますからね。しかも「偉い俺たちが払った、俺たちの貴重な税金」という誤解付き! それで結局、「ベーシック・インカムなんぞ実施したら社会が回らなくなる!」とか言い始めるわけです。実際には、彼らが気にしているのは社会が回るかどうかではなく、自分の優位性です。

 現在の社会保障は「働けない人」において恥辱感=スティグマとして機能してしまうのが難点であるというのは著者も幾度か指摘しています(24、49-51、56、90、211ほか)が、大多数の人は「スティグマは必要である」と考えることでしょう。なぜならそっちの方が承認が満たされて安心だから。承認には対比が不可欠です。できる奴は誇りを持って実力を発揮し、さらに人々から求められ、その気になれば場所を移して、自立して生きていける。自分には一人で生きていけるだけの力がある、というのが「自由」という感覚なのですね。それを実感するためには何かに依存しており、行動を制限されている惨めな人々の存在が欠かせません。「偉くて自由な俺たち」との対比のため、偉くない人たちは不自由でなければならない、と決め込む訳ですね。そこで「全員にお金を配ろう」となると、「自立して生きている」自己像が崩れ対比があやふやになり、承認が失われる不安があります。しかし実際、本当に安心なのはどっちなの?ということを考えてもらわねばなりません。見下す快楽を味わえる代わりに明日は我が身の社会と、一応最低限の生活は保証されてる社会と。病気になりたくて病気になる人はいませんしね。

 まあそもそも、「働いている偉い俺たち」という発想も、現今の実質強制労働社会における労働の苦しみをなんとか誤魔化そうとして価値を転倒させているだけじゃないの?と思います。強制されている、やらされているという事実に耐えられないから、自分は「自発的に」仕事をしているんだ、自由なんだ、主体なんだ、自分には力があるんだ!と思い込んでしまう。尊厳を奪われているからこそ、逆説的に尊厳に執着し、恰も今の自分にこそそれがあるかのように振舞ってしまう。(本当に自分の意志で楽しんで仕事をしている人は、わざわざ仕事の尊さを主張したりしないと思うのです。)しかし労働の自由、労働の尊厳もまず生活が保障され、生活することと労働することとが切り離された後でこそ言えることでしょう。自分の力と尊厳の存在を信じるなら、むしろベーシック・インカムを肯定しなければなりません。

 誰が働くのか?といったら、働きたい人が働くでしょう。働きたい人があまりに不足するのなら、普通の、優しい人が働くでしょう。・・・「社会を維持するためにあなたたちの労働がどうしても必要です。払うものは払うので、どうかよろしくお願いします」と言われて働かない人はそうそういないと思うのですよ。現在でも同じようなことが言われてはいますが、現在言われていることは実際には、「労働するか飢えるか選べ。仕事がないなら作れ。社会に必要のないブルシットジョブでも、必要だという体にしろ」ということであって、意味が全然違います。ベーシック・インカムには本当に必要な仕事とそうでない仕事を分ける効用もあるのです。必要な仕事はずっと残り続けます。それはできる人がやればいい。ベーシック・インカムが実施されたところで、社会に必要な仕事まで全部いっぺんに投げ出して誰も働くなる、とかいう発想こそ全く非現実的、ただの妄想だと私は思います。