陰雑記

日陰者の日記・陰弁慶の陰口

進化の歴史がどうとか

 夢の中みたいな意識状態がずっと続けばいいんですがね。現実は現実味が強過ぎる。

 

 そんなに詳しくはないのであんまり強くは言えないんですが、人間の行動について語るのに進化論、というか「進化の歴史」を持ち出すのやめてほしいんですよね。そんなんどうやって実証すんねん、って感じの仮説ばっかだし。理論とか仮説とか予想って大抵外れるじゃん? 勝手にお話作って感心して「私には深層の構造を見抜く才能があります」みたいな口振りで語るのを聞くとちょっとね。それって理科・科学なの?それとも文学・哲学なの?って感じで混乱するんですよ。いや文学なら文学でよくて、そういう言論領域があること自体は素晴らしいと思うんですけど、いかにも「科学です、従って事実です」みたいな顔されてもねえ。

 一般的に人間の行動を説明したかったら、生物学的基盤ってのは最後に持ってくるべきですよね。これこれこういう人間の行動がありますが、これは社会的にこういう状態があって、その状態の中でこれこれという概念、意味連関が形成されてきた結果、人々はこう考えるようになったのです、と。そしてそういう説明がなされた後で、じゃあそういう社会的な経緯そのものが、そもそもなぜ可能だったのかというと、これこれこういう進化を辿ったからで、それは現代人の身体のこの部分と原始人とか他の動物の身体のこの部分を比較すると分かってきます、とか、こういう説明が欲しい訳ですよ。

 大抵生物学の前に、社会的に合理的な理由があるもんです。でも社会的な合理性ってのは生物学的本質性に、急激に書き換えられてしまいがちなんですよね。そっちの方がなんか、深い話をしてるっぽくなるから。。社会的振る舞いが形成されるための社会的条件がすっ飛ばされて、なぜかいきなり「生物学的な(???)」話から始まっちゃうんですよね、俗流進化心理学って。もちろん社会的振る舞いが生物学的基盤を持ってるのは確かですけど、それは振る舞いの記述とは別に記述されるべきだと思います。進化の過程で身体的にどこがどう大きくなったり小さくなったりしたか、密度がどうとか濃度がどうとか、そういう話が生物学的な話であって、そっから現実的に人間がどう振る舞うか、って話とは次元が違うし、混ぜちゃいけないと思うのです。

(今日見た例だと「どこの地域でも経済発展すると子供が少なくなるけど、これはそもそも人間が少数の子供に『投資』するように進化してたから。昔はたくさん人が死んでたから、仕方なくたくさん産んでた」みたいな。近代になってようやく人間が「本来の姿に戻った」みたいなことですかね? いやいや。

 経済発展したら農業の比率が減るから、労働力確保のために子供をぽんぽこ産まなくて済むってことがあります。豊かになって貧困が減れば、とりあえず子供を次々に産んで働かせて、いざという時には売却して食い繋ぐ、とかしなくてよくなるわけですし。しかしぽんぽこ産んでた時代でもそれを嫌々やってたのかって言ったらそうじゃないですよね。ただその方が社会的に合理的だったから「自然と」そうしてただけで。

 で、頭脳労働やらなんやらの割合が増えれば子供をしっかり教育する(読み書き計算がちゃんとできるようにする)ことが重要になってくるから、教育にコストをかけることになってたくさんは産めなくなるでしょう。これも別に進化がどうとかじゃなくて、その時の社会においてどのような合理性があるのか、ってだけの話です。たくさんは育てられないから産まないってだけで、そう進化したって訳じゃない。というかそんな現代でも子沢山の人はいるし。そもそも「ある行動を取るように進化したのに、状況次第では逆の行動も取れる」ってなんか変じゃないです?

 ……というだけですね。人間が子供を何人産むかなんてのは状況次第です。進化の問題じゃない。遺伝的戦略じゃなくてただの社会的戦略です。しかもこの理屈ですら、世界中どこでも成り立つ法則ってわけじゃない、、人間の在り方は多様です。)

 

 しかしこういうお話で何が求められてるのかって言ったら、やっぱ「本来の自己」だったり、新手法の運命論だったりするんですよね、多分。今の自分がこうであることの手っ取り早い根拠・理由、みたいな。