陰雑記

日陰者の日記・陰弁慶の陰口

文学について

 文学部が定期的に叩かれてるのを見るとどうしても擁護したくなりますね。まあ私も文学系出身なので。特に広義の文学じゃなくて、小説とか読んだりするマジの文学部の意義について。

 小説読んで感想なんか書いてどうすんの?というのが文学部批判というか批難のほぼ全てでしょう。それに対して「感想文のことを文学と言うのではない」みたいな反論もあり得なくはないんですが、まあ別に、感想でもいいんじゃないの?とは思います。そもそも、感想を書くことができるとか、感想の対象になりうるという時点でその作品は特別であり、その作品を学問として論じる価値はある、と判断できます。というか、作品の存在そのものが自明ではないのです。感想を言うことも自明ではありません。それは極めて高度な文化的営為です。なんらかの文章があります。いつか、誰かがそれを書きました、それを私が読んでいます。この単純な関係の中で、問題にならないことは一つもないのです。

 何かといえば、学問というのは何か大きな謎があってそれを解くためにある訳ですが、小説や文学作品というのもまさにそのような巨大な謎なのです。解くべき問題があるから研究する、というただそれだけです。物理学は、物理現象とはとどのつまり何なのかを探究します。文学もその作品、テクストは、とどのつまり何なのかを探求します。同じです。もちろん自然現象と違って、文学の「何であるか」は一意に定まりません。色んな観点があります。その作品は、「作者にとって」どんな意味があったか?(作家論、「作者の気持ちを答えよ!」)また「歴史にとって」どんな意味があったか?(誰がどのようにその作品に影響され、どう世界を動かしたのか? あるいは同時代人たち、名もなき民衆たちにはどう作用したか?なぜたくさんの人々がそれを読んだか?どのように読んだか?商業的にはなぜ「売れた」のか?「受けた」のか?)」また「現代を生きる我々にとって」それはどんな意味があるか?何を学べるのか?何に活かせるのか? そして「この私にとって」どんな意味があるのか?

 この「私にとって」というのを批評と言いますが、批評にはもはや普遍性なんぞないので、学問たりうるのか怪しいところではあります。しかしながら批評というのはそれ自体が一つのテクストとして同時代人に伝播し、将来的には研究対象となります。それで言えば歴史的影響や作者の気持ち論だって、それが論じられる事自体が一個の作品を作ることであるわけですから、必然的に「現代を生きる我々」にも繋がり、「この私」にも繋がります。「歴史的にこんな意味があった!」っていう研究成果は、そのまま「そういう歴史があったこと自体にはどんな意味があるのか?」っていう問いにつながります。文学は重層的です。研究すればするほど、研究対象は増えます。まあ自作自演といえばそうですね。しかし文化(文科)っていうのはそういうもんなのです。自己言及的・再帰的なものです。まあとにかく、終わりがないってことも別に他の学問と違いはないです。物理学が「完成」することなんか考えられますかね? これで終わり、なんてことはあり得ないでしょう。求めればどこまでも謎、求めるのをやめれば謎でもなんでもない、どうでもいい。それはどの分野でも同じことです。

 科学は進歩するけど、文学は進歩しないじゃん、っていうのもよく聞く話です。確かに何度も同じ事が言われますし、年中同じことばっか書いてる人もいます。科学みたいに「こっからここまでは証明済み。あの理論はもう古い、間違い。ここは前提共有済みで、もう動かせません」とかそんな感じの傾向は、まあ文学でも(歴史的事実とかが参照される場合とか、)もちろん無くはないですけど、確かに弱めだと思われます。哲学も弁証法的に進歩します、みたいなことは言われるけど、その弁証法っていうのだって何度も何度も新しく語られ直されますし。何度でも最初からやり直しになります。新規性がない、焼き直し、足踏み、まあそういう側面はあります。それを無駄だと言うのも分からんではないですが、それは対象の性質からくるものです。自然法則は基本的に変化しません。しかし人間は、個人はすぐ死にますし、社会は色んな要因が混ざって色んな考えを生みますし、その社会に影響されて個人の人格がまた構築されますし、という偶然性や相互作用の中にいるのであり、「ここさえ押さえとけば大丈夫、間違いない」ってポイントがいまいち掴み難いのです。自己言及的っていうのはそういうことです。作品を語ることは結局人間を語ることであり、また人間を語っている自己を語ることでもあります。ところが人間、「人間とはこういうもんだ!」って言ったり言われたりしたその瞬間から、もう「何か違うんじゃないか? そうじゃない可能性もあるんじゃないか? 少なくともこの私は違うんじゃないか? そうでないものになれるんじゃないか?」ってなってるもんです。少なくとも、ぴったりと万人にはまるような論理は無いです。何を言っても的外れ。だから同じことでも何度も言われ直さないといけません。それでまあ「保存する」というのも文学の重要な要素になってきます。人間についてのことは、保存しないとすぐ失われますから。保存しておきさえすればまたアクセスできます。温故知新ということがあります。そうして新旧入り混じる中からまた本当に新しいものも出てきます。

 そういう訳で文学はどんどん広がっていって、必ず誰でもどっかで触れています。論じることが新たな文学になります。口頭での伝承で物語が広がっていくのと同じことをずっとやっています。恩恵も受けているはずです。基礎だから目立たないだけで。で、そういう活動を大学で、学問として、若者が学ぶ意味はあるのか?って言ったら、もちろんあります。何か読んで感想を書くだけならネットの片隅でもできますが、そういう散発的な営みだけではだめなのです。古今東西どこにでもある活動とはいえ、資料のまとまった場所で、まとまった人間が集まってそういうことをやる、密度の濃い場はどうしても必要です。そこが中心になるわけですからね。結局そこから出てきたものが流通して、各所のやや密度が濃いところとか、あるいは個人的な活動とか、そういうのに繋がっていくんですし。これ書くの飽きてきたわ。そんなわけで私も現在、文学の末席の末席を汚しているのです。