陰雑記

日陰者の日記・陰弁慶の陰口

中村元『インド思想史』

 中村元『インド思想史』(岩波全書、1968)を読みました。インダス文明の始めから現代(戦後)までのインドの思想史が一通り書いてある本ですが、あんまり分厚くはなく、記述は簡潔で、概観という感じの本です。古代インドといえば仏教ですけど、仏教の前にはバラモン教とかウパニシャッドとかあったし、仏教以後もヒンドゥー教とか色々あったわけですが、その辺よく知らなかったのでちょっと興味があり。まあ結局興味の中心は仏教なんですけどね。

 やや古い本なので本当に最近の事情はもちろん書いてないんですが、イスラム教とかが入ってきて一回仏教は壊滅し、近代に入ってから復活したそうで。「絶無に帰した仏教がインド独立後に急激に増大したのは、それがアンベードカルを指導者とする不可触賤民(Untouchables)の部落解放運動の指導原理とされたからである。一八五一年にはインドの仏教徒は僅かに一八万人にすぎなかったが、一九六一年には三二六万人に達し、十八倍に増加し、インド第五の宗教となっている。また日本山妙法寺の運動も注目されている。一般インド人は仏教はヒンドゥー教の一分派であると考えている」(251)。この本の最後に載ってる統計は1971年のもので、仏教徒は381万2325人で全人口の0.7%だったそうで。外務省のサイトに載ってる2021年時点での比率がヒンドゥー教徒79.8%、イスラム教徒14.2%、キリスト教徒2.3%、シク教徒1.7%、仏教徒0.7%、ジャイナ教徒0.4%となってるので、今も大して変化はしてないみたいですね。増えたって言っても1%行かないくらい。日本山妙法寺って唐突に出てきたけど何?と思ってググったけどやっぱり何?という感じです。なんか日蓮系の団体らしい。「平和」を強調する感じの。まあいいや。

 やっぱ圧倒的に多いのはヒンドゥー教なんですね。仏教がヒンドゥー教の一分派扱いってなんか不思議です。順序が逆転したんですね。なおヒンドゥー教には開祖とか特にいないみたいです。「当時の民衆はいちおうヴェーダ聖典の権威を承認し、各自のいだく俗信・神観をヴェーダの宗教に連結せしめつつ、徐々に自分らの生活に即した新宗教を成立せしめた。それをヒンドゥー教(Hinduism)という」(82)。「インド人らしさ」みたいなものを全部乗せしたらヒンドゥー教になるってことでしょうか? シヴァ神ヴィシュヌ神は有名ですよね。といってもヒンドゥー教がさらに「世俗化された」(237)のは中世にヴァッラバという人が出てきて以来みたいなんですが。この辺はよくわからん。

 実在する神々を信仰する宗教ですし、あらゆる存在に実体を認めない仏教の立場はまあヒンドゥーには受け継がれていない感じですね。って言っても「真の神の姿と、その化身」って発想はあるから、単純な実在論ではないのか。ヴェーダーンタ哲学(アートマンブラフマンの融合みたいな感じで倫理だったか世界史だったかの教科書に載ってるやつ)だって、アートマンブラフマンは一旦別ってことで悟りと世俗を分けますもんね。普通に存在するこの世界っていうのは幻みたいなもの、妄念、マーヤーだ、って主張をして、大乗仏教のパクリじゃねーか(「仮面の仏教徒」(197))って批判されたらしいです。しかしアートマンブラフマンって二原理を認めて、ブラフマンを真実在(唯一にして不二なるもの、らしい(196)です。)と考える辺り大乗仏教とは全然違うような? 仏教だったら容赦なくアートマンブラフマン共に空、ってやるでしょうしね。この辺どうなんでしょうね。議論の当事者たちはそこまで厳密に考えなかったのか? とにかくヴェーダーンタの影響を受けた「シヴァ教」ってやつの考えがなかなか良いですね。大雑把に言うと世界はなんにも無い静かな状態からシヴァ神の自由意志によって活動を始めるんですが、「われ在り」という意識が生じてくると「尊厳の感情」が起こって、万物が自己と同一視されていた状態から、その「全てを包摂している」って意識がなくなっていって、最終的に万物が自己と独立にそれ自体で存在する、と思い込んでいってしまった結果世界が存在する、みたいなの(201)。なんかいかにもって感じです。

 

 あとは仏教について。仏教用語の空のことを「シューニヤ」っていうのは知ってましたが、シューニヤが数字の0のことだっていうのは知らんかった。へーという感じ。

 仏教が栄えた時代もあって、それは時の権力に保護されていたからなんですが、そういう世俗権力とか、あるいは民衆と結びついていた仏教っていうのは小難しい宗教哲学というよりは、まず割と素朴で誰でも理解できるような道徳だったはずなんですよね。私は小難しい方の仏教は多少知識がありますが、道徳的仏教の方はむしろほとんど知らないので、軽く知ることができてよかったです。「仏教の教える実践は、一言でいえば、道徳的に悪い行為を行わないで、生活を浄めることである。(「諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教」)。正しい道徳は古今を一貫した永遠の法であり、ゴータマが新たに創始して作り出したものではないという」(63)。戒律としてはシンプルに殺すな、盗むな、騙すな、とか、「他人を軽視してはならぬ、他人と争ってはならぬ、怨んではならぬ」(65)と。当初の教団からしてあらゆる階層の人が参加していた、平等志向だった、っていうのは間違いないようです。まあしかしインドのガチガチの身分制・差別肯定を表現した『マヌ法典』ができたあたりの時代で仏教が何やってたかっていうと、寄付とか受けまくって金がたまった結果なのか調子に乗ってたようで、「正統的仏教諸派は・・・莫大な財産に依拠し、ひとり自ら身を高く持し、自ら身を潔しとしていたために、その態度はいきおい独善的・高踏的であった。かれらは人里離れた地域にある巨大な僧院の内部に居住し、静かに瞑想し、坐禅を修し、煩雑な教理研究に従事していた」(118)と。これへの反発もあってか民衆の方から大乗仏教が起こってきたそうな。

 現代にも割と多いシク教徒も身分制は反対のようで、まあそういう動きもずっと昔からあったんだなあと。他には唯物論が復活したり、近代では諸外国に対してインドって国そのものを定義するために哲学・宗教の研究がされたりで色々あったようです(雑)。あとやっぱヴェーダーンタ哲学が強いんだなあと。ヒンドゥー教の哲学を煮詰めたものだとすれば当然なのか。シャンカラさんのこととかあんまり知らないので、そのうち調べてみたいなあとは思います。