陰雑記

日陰者の日記・陰弁慶の陰口

神とかヨブとか

 昔どこかのサイトで見て、記憶は朧げで正確ではないと思うが、印象に残ったこと。何かの質問サイトで、「キリスト教ではイエスを信じれば罪が許されることになってますけど、じゃあ今浮気しまくってる私もこれで全然大丈夫ってことなんでしょうかぁ? それとも神に裁かれますかぁ? やばいっすかねぇ?」みたいな質問があり、それに対してこんな感じの答え。「神様が御許しになるかどうかは分からないけど、その前にあなた自身がその行為をどう思ってるのかが重要だ。正直自分でもあんまり良くないと思っているのなら、神様もあなたがそれをするのをお喜びにはならないだろう。実際に罰せられるかどうかよりそっちの方が大事」と。

 

 「もし神様が気違いだったらどうするのか?」って話題が散見されます。つまり、普通に考えたら善いことをした人が天国へ、悪いことをした人が地獄へ行くことになっているけど、もし神様の考えが我々が思っているのとは全然違ったとしたら、逆に善いことをした人は皆地獄行きとか、人間は皆地獄行きとか、ある日ある場所でカレーを食べたから地獄行きとか、そういう判断基準を神が持ってる可能性もあるだろうと。これは「神様がどんなものなのかは絶対わかんないのに、勝手に善意に満ちた神様を信じてるのは滑稽だなあ」という嘲笑にも繋がってくるのですが、別に私はこんなの問題じゃないと思う。そういう気違いの神がいて私を裁くとしても、私はそれが本物の神だと認めない、というだけの話だ。真の神は別に立てればいい。そして真の神からの正しい裁きと救いを待つのだ。だから私の神が気違いであることはあり得ない。要は嘲笑された通りに、私は自分の思う神を信じるのだが、だからこそ神の心が絶対にわからないということもまたあり得ないのだ。

 あるいはとにかく、起きたことは神の望む通りに起きているので、神と私の間で倫理観的齟齬が起きることもまたあり得ない、と考えることもできる。齟齬が起きるとしても、神の定義上私の方が間違っているに決まっているので、従うしかない。神は全能にして最善なのにこの世に悪が存在することについても、とにかくそれが神の善意からくるものであることについては疑えない。とはいえ、結局それが具体的に神のどういう善意に基づいてのことであるのか、は考えられないといけない。そこに問題がある。

 偽の神と真の神がはっきり分かれるのは、神が実際に現れて何らかの理屈を捏ねた時だけだろう、とは思う。何らかの理屈を捏ねてくるからこそ、それに反対したり、「お前は神じゃない」と言ったりすることもできる。理屈を捏ねない場合にはどうとでもこちらで解釈するしかないから、ひたすら神の真意を問う他ない。「あなたはいつかのどこかでこんな善いことをしましたね、だから地獄へ行ってもらいます」などと言われたら、それは議論が必要になるし、議論が不可能ならやっぱり「お前は神ではない」と断言するしかないだろう。そういう理屈を捏ねない場合には何とも言えない。理屈を捏ねない神ならこちらの解釈でどうとでもなる。つまりこの場合、「地獄に行ってもらいます」と言ってきた神は偽物として、何も語ってこない真の神に対し真意を求めるのだ。だから『ヨブ記に出てくる神(べらべら自慢話だけした上で、答えではなく問いを投げかけてくる神)は最終的には真の神とみなすことができたのだと思う。これが滔々と、理路整然と根拠を述べる神だったらむしろ怪しまねばならない。というか理屈を捏ねる神だと、神が人間と同じ論理の土俵に上がってしまうことになるので、神が話に登場するとなると、必ずそれは非論理的な神になるんじゃないか?

 

 と考えると、やっぱり真の神の真のお考えは私自身が考案しないといけない(向こうからの説明は期待できない)ことになるが、結局これが大変なのだと思う。神がお与えになるものは確かに全て受け入れるべきであることは前提として、では真の神はどのような理屈で私をこのように扱うのか?ということを自分で考えていかないといけないのだ。考えなくてもいいけど。納得するためにはね。

 

 何にしても客観的に存在する人物としての神を想定して、そこから話を始めても仕方がない。神の真意を問うのではなく神から私が問われているのだと考えないと信仰は何の役にも立たないでしょう。だから神を試してはならないんですね。神を試したって何にもならないのであり、試されるべきは常に自分なのです。エリパズくんとかは分かった風な口を効いてるけど、最初から教義を語ってるだけで自分なりの問いと答えを持ってなかったから駄目だったのだと思うのですよ。なぜこの世には悪が存在するのか?とか、なぜこの私がこんな酷い目に遭うのか?とかいう問いに答えないといけず、しかも因果応報だから、神がそう望んでいるから、という安易な答えじゃなくて、実際に神を目の当たりにしてようやく悟れるような真実を求めないと駄目だったのです。こういう問いに対して「『ヨブ記』を読めばわかる」とか言ってしまう人もエリパズくんと同類で、まあつまり、自分が本当に苦しい目に遭ってるときに、そんなありあわせの答えでほんとにあんたは満足できるのか?と、うん、まあそれはいいか。