陰雑記

日陰者の日記・陰弁慶の陰口

会話したくない話

 会話難しいよなあ。昔から苦労してます。なんか私だけ変なんですよね。変な方向に打ち返してしまう。変な空気になる。怖い。

 基本相手の話をあんまり聞いてないのと、文脈に気をつけず頭の中にあることをそのまま出してしまう傾向があります。仕事上での会話とかなら、まあ何が求められてるかは大体わかるのでそれほど(?)エラーは出ないんですけどね。日常会話が難しい。

 ……まあ、同じような傾向を持つ人で、多分これ自覚してないだろうな、、と思う人とかもいるし、自覚があるだけ私はマシかもしれません。というソクラテス的屁理屈でどうにか尊厳を保ちます。酷い人は本当に酷いですからね。相手の話を聞かずに自分の言いたいことだけ早口で喋る人、この前も見ましたが恐ろしいです。私もああなりかねないと思うと。いや、そうは言っても流石にあんなんならんやろとは思うんですがね。

 「あ、この人自覚なさそう」って何故思うのかと言うと、あまりにもその人が堂々としていて、むしろ自分の正しさをやたら信じていて、理解されないことに怒りを感じているらしいからです。ズレてるの自分なんですけどね。というか相手の言ってることをほとんど聞いてないのに、聞いてないなりに無理矢理自分の知ってる文脈で勝手に解釈して、それに対して激怒しながら反論して、論破したぞ!どうだ!みたいなことをやってる人でした。「賢い私」アイデンティティを拗らせるとああなるのかもしれません。

 「賢いか馬鹿か」というのは、もちろん思考の正当性にもよるのですが、議論してそれを見極める場合には、むしろ周囲の人間のリアクションで決まってしまうという側面があります。御高説も理解されなきゃどうしようもないですからね。「主張してるのがただ一人でも、真理は真理だ」と言いたい気持ちも分かりますが、それなら議論なんぞしなけりゃいいのです。信じてる奴が一人でも(例えそれが妄想や幻覚でも)それが真理でありうるという考えは、特殊に形而上学的な立場に基づくものだと思います。つまり独我論的には、自分しか実在しないんだから、他者の同意や承認は全く不要になるわけですね。しかし独我論的立場は共有することができるので、結局「それぞれの人にそれぞれの世界があるんだねえ」という話になるのですが、そこでいつまで経っても独我論的に閉じこもって出て来れない人もいます。仏教(特に中国)だって一旦全ての無、独我論的一円相を悟った後には、そのまま世の中の雑然とした交わりに帰ってこなきゃいけないよ、と説いてます。もちろん「我を通す」ことが大事なこともありますが、我を通すためにはまず他者を知らねばなりません。他者なしの無自覚で我を通すのは、通したことにならないので論外です。悟りたければ悟ればいいですが、悟りっぱなしで戻ってこないのはただの変な人です。。

 何の話でしたっけ。そう、だから周囲が困惑してるのに自信満々で怒りながらべらべら喋るのは良くないって話でした。この前見た人があまりに酷くて、嫌なものを見た記憶を消化するためについ長々と書きました。

 私の話に戻ると、私はむしろメンタルが折れているので、自己主張が難しい。変なこと言わないように自然と無口になります。

 しかし世の中の「無口差別」というのが結構強い気がしてましてねえ。世の中大抵、とにかく何か言うことが大事、黙ってるならそこにいる意味がない、みたいに思われてませんかね? スピーチとか無理矢理やらせたりしますしね。本来、言いたいことがある人がそれを伝えるべきであって、特に無い人に何か言わせても碌なことにはならないはずなのです。まあ何も言いたいことがないって言ってる人でも何か捻り出そうとすればできるし、それが何かしら他人の利益に繋がるってこともなくはないけど、多くの場合はスピーチを考える側は精神的な負担大きく、無理矢理作ったスピーチなんか大抵つまんないので誰も聞いてない、そんな地獄のような状況になってしまいがちです。だから言いたい奴だけが言いたいことを言う、でいいと思うんですが、しかし自己主張が強過ぎる気違いになってもいけないですよね。まあそういうのはその人がおかしいだけで、風潮の問題ではないんでしょうけども。

 えー何の話だ?? つまりですね、私は自己主張の激しい気違いではないですが、しかし発言はどことなくおかしいような感じの人なので、なるべく喋りたくない。そういう事情の人もいるのだから、話すことを強要しないでほしい。ひいては「とにかく何か喋るべし、沈黙は罪」という風潮をやめてほしい、とこういう話になりますね。なってますかね?