陰雑記

日陰者の日記・陰弁慶の陰口

情報の取捨選択

 はー眠い眠い。家で仕事してたって眠いのよ。眠い。眠いったら眠い。

 

 正気であるとはどういうことかについて最近よく考えます。まとまりません。

 

 正気であるってことは「判断が正しい」ってことでしょうか。判断の正しさってどう決まるんでしょう。情報の取捨選択でしょうか? なんか前にも似たようなことを書いたような。まあいいや。何度でも同じことを書けばいいのです。

 

 色んな情報が入り乱れていますが、その中で何を信じるのか、その根拠を深掘りしていけば、結局のところ「信じたいから」という答えにしか辿り着かないでしょう。それは当然ですね。「充分な根拠があるから(……だからそもそも「信じる」という表現自体が当たらないのだという立場)」であるとか、「それを信じることでみんなに利益があるから」とか、なんらかの「深い」理由を挙げたとしても、「ではなぜ根拠があるものを信じ、根拠がないものを信じないのか?」「なぜ人々は利益などというものを求めているのか?」という話になってきます。それはもう、「根拠というのは、利益というのは、そういうもんだから」としか答えられないでしょう。根拠があるから信用できる、というのは根拠という言葉の定義的にそうだし、利益があるからそうするべきだ、というのも利益という言葉の定義的にそうなのです。なのでそれ自体を疑われると、「そういうもんだから」としか答えられません。でも究極的には、というか、哲学的には、それは答えになってないのです。答えられないのです。非哲学的領域ならそれでいいんですけども。

 だから結局「なぜそれを信じるのか」については、答えられないし、答えられないのだから、答える必要もありません。そもそも、客観的な世界の事実なんか誰も知りません。というのも、「人は何を信じるべきか」という問いへの正しい答えだって、世界の事実の内には含まれていなければならないのに、それに答えることが不可能なのもまた明白だからです。客観的事実っていうと今日では科学的な、物質の状態の総体のことをそう呼びがちですけどね。しかし世界というのは物質の状態に尽きるものではないし、客観性という言葉の意味を物質の状態に限るなら、「何を信じるべきか」なんて問いは出て来ようがないでしょう。こういう問いが出てくる時点で、問題は物質ではなく精神なのです。そして精神は人それぞれです。だから結局、「人の数だけ真理があるんだねえ」という月並みな所に落ち着きます。

 じゃあどうするのかというに、「なぜ信じるのか」の問い方の問題になってくると思います。根拠があるとか利益があるとかいうのは、「万人がそれを信じるべき根拠」について答えるものです。しかし万人への根拠というのも結局は無根拠なのであり、個人的なのだ、というのが上記の趣旨でした。よって「万人がそれを信じるべき根拠」=「なぜ万人がそれを信じるべきなのか」ではなく、「なぜ私はそれを信じたいのか」という根拠についてこそ語るべきだし、これなら語ることができると思うのです。それはごくシンプルに「そう思うと安心するから」かもしれませんし、案外「情報マウントを取りたいから・イキりたいから」かもしれません。(人はイキるために生きるのだろうか、と時々思うことがあります……冗談です。)それはそれでいいのです。自覚がないのがまずいのです。何がまずいって、他人に危害を加えることになるでしょう。なんで他人に危害を加えちゃいけないと思うのか?って言ったら結局これも私が怖いから、ということになってくるんですけど。

 じゃあそれを自覚してどうするの?って言ったら、別にどうもしません。根本は根本である以上、変えられないですし。(「自分を変えよう」とか「いや、やっぱ変えたくない」とかいう動き自体がその根本から来るんだから、変えられる訳がないのです。根本が変わることがあるとしたら、それも無根拠に何故か変化する、としか言いようがありません。……この根本のことを昔から「性根」と言いますね。)でも何かしらのヒントは得られるでしょう。そのヒントは何の役に立つのかというと、多分正気でいることの役に立つのです。ということでここまでの話をまとめれば、自分を知っていることが正気であることの条件であると。それが全てかっていうとそうでもないような気がしますが。