陰雑記

日記とか

明日の飲み会とワクチン陰謀論について

 明日は出社。そして飲み会。会社が金を出しているので、ほとんど仕事扱いの飲み会。うちの社長はコミュニケーション笑なんぞのためにテレワーク日数を半減させるような能無し。そして明日は「社長付」なる謎の役職の人が一緒に参加する。不安だ。先輩は最近ずっと体調が悪いと言っている。不安だ。個室で飲む。換気は期待できない。マスクをしたまま酒は飲めない。どうなるかな。

 

 まあ実際感染しても大したことにはならないとは思うんですが。しかしそれも根拠のないことで、やっぱり大したことになるかもしれないんですが。しかしそもそもそういう問題ではなくてね。

 個人がどうこうではなく、公衆衛生の話なのです。罹っても平気だったって人が無策で再感染した結果、平気じゃない人に感染させる場合があって、それがまずいのです。レアケースだから気にしなくていいということにはならないですし、というか入院・死亡はともかく、後遺症はそれほどレアな話でもなさそうですし。

 

 そういや最近ワクチン後遺症の話もよく聞きますね。

 急拵えでしたし、製薬会社がとにかく儲けようとしてたってのもあるでしょうし、色々と問題はあったんでしょう。体質的にどうしても相性が悪かった人もいたでしょうしね。打つ人が多ければ、それだけ当然問題も多くなるはずです。安全な薬などないのです。

 しかし恐ろしいのは、「ワクチンが毒になってしまう場合もあった」という話が「ワクチンは実は毒だった」という話にすり替わり、「ワクチンは不要だったのだ」となり、「ということは、ウイルス対策も不要だったのだ」というようにあらぬ方向へぶっ飛んでいってしまうことです。恐るるに足らないものを恐れさせることで、変な物質を売りつけ注射させていた、というコロナワクチン陰謀論ですね。そして布教を始めるんですよね。

 いやいや、ワクチン後遺症があるなら、コロナ後遺症はもっとあるでしょう。なぜか陰謀論者はその辺を択一にしてしまうのです。「コロナ後遺症じゃなくてワクチン後遺症」という表現がしばしば見受けられます。普通にどっちの後遺症もあると思います。ウイルスでもワクチンでも、体内に入ってどうなるかはそれぞれの人体の性質による、という単純な話が通じず、ワクチンやウイルスそのものが、悪なら悪、善なら善、という変にシンプルな(というか単細胞的)思考に走ってしまう人が少数ながらいるのです。恐ろしや。

 こういうのは昨今の努力教やら自己責任教にも通じるものがありますね。「あの人は努力したから今の境遇にある。だからあなたも努力して〜」とか、あと「同じように虐待された人でも立派に生きている人はいる。だから被虐待経験のせいで上手く生きられないというのは甘え」とか、「疲れているというなら、みんな疲れているのは同じだ。だから疲れを言い訳にしてはならない」(この前会社で受けた研修で本当に言われた)とか。個別の場合を無視して努力の効果がどうとか虐待の効果がどうとか疲れの効果がどうとか言っても意味ないんですが、言ってる人には絶対通じないんですよね。恐ろしや。