陰雑記

日陰者の日記・陰弁慶の陰口

縁起

ちょっとメモ。

 縁起説を因果関係に基づく決定論と解釈するのありがちだけど、「私の運命は自由なのでしょうか必然なのでしょうか」って問うたら間違いなく釈尊は無記って答えるよね。別に自由だろうが必然だろうが大事なこと(真理、悟り)は変わらないでしょと。無我(何事も自分の思い通りにはならないものだ、自分でさえも)って観点からすると不自由に分がありそうだけど、じゃ不自由だったら修行は不可能なの?って言ったらそんな訳ないし。

 縁起説は自由とか偶然性を許容するか?って言ったら、少なくとも自由と必然ないし偶然と必然は対になるが故にお互いに依存している、って点で縁起の内にあるし、或いは自由なる概念・性質と、自由の内実・実際の行為との関係は間違いなく縁起的だし、という訳で全くもって許容できると考えられる。

 縁起説自身は特に自分の主張とか持ってないよね。そもそも縁起は中道なんだから、自由だの必然だのに偏る訳ないし。主張じゃなくて見たままを語ってるだけ。

 縁起=中道。縁起は自由と必然のような対立のどちらにも与しない。ただ対立関係をあるがままに認める。縁起自身は実体観と対立するが、その対立をもそのまま認めることで縁起に内包する。